2007-01-01から1年間の記事一覧

画廊をみて歩く

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秋山画廊で祖母井郁展。ギャラリーの空間に対しては、小ぶりの立体造形が3つ配置してあるさっぱりとした展示で、一見さっと見れてしまいそうな印象だが、ゆっくりと細部の素材感に目をやっていると、立体の外側の空間に横顔の形が浮かび上がってくる。どの…

絵画を制作していると、道中で当然破綻する。破綻の中にも良い破綻と悪い破綻とがあって、なしくずしに悪い方へ進んでしまうと、実際はそうではないのだが、徒労感だけが残されるようでなかなか筆を置くことができない。反対に、結果的に画面を破壊したこと…

六本木クロッシング2007:未来への脈動

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割引券を頂いたので、「六本木クロッシング2007:未来への脈動」展を観にいった。1989年に起こったベルリンの壁崩壊によって、社会主義体制が終焉を迎え、同時に既存の資本主義社会が高度化していったことに呼応するかのように、純粋芸術という枠組…

線路脇の店で友と、これまでのこと、これからのことについて語らう。 猫の眼のように光る、巨大な半月を観ながら家路につく。 夜の冷気に包まれていても、酒を飲んだせいか寒さは感じない。

迎えに来る

部屋の窓が、隣家の庭の一角に面している。窓枠は丁度、その庭に生えた柿の木を切り取っており、その向こうには遠くの団地が空の下に聳えている。今年もその柿の木には多くの実がなったのだが、それらの実は例年通り今も収穫されずに残されている。そうこう…

ヴァレリー・アファナシエフ

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神奈川県民ホールで、ヴァレリー・アファナシエフのピアノリサイタルを聴く。プログラム前半のどこまでも繊細で優美なワルツと、後半の力強いポロネーズが対比される。曲調がどれほど異なろうとも、アファナシエフがピアノへ向かう不動の姿勢は変わらない。…

塩田千春

横浜の神奈川県民ホールで塩田千春展を観る。塩田はドイツ在住の作家である。巨大な建築物に毛糸を張り巡らせたり、ピアノを焼き焦がすインスタレーションで知られている。同じドイツということで、ついボイスやキーファーやりヒターを連想してしまうが、実…

埴谷雄高『死霊』展

去る嵐の日に、神奈川近代文学館へ「無限大の宇宙 埴谷雄高『死霊』展」を観にいった。原稿やメモ、書簡から身の回りの品々を通して『死霊』が書かれた背景を探る展示である。天井から吊り下げられていた、幾何学的で清澄なデザインの般若家の家紋に驚かされ…

死と眠り

政治事件によって逮捕され、死刑判決を受けたドストエフスキーは、刑場で銃殺刑に処される寸前になって、皇帝による恩赦を受け、開放される。その瞬間のドストエフスキーは、いったいどのような「状態」にあったのか。一切のものを食べず、空腹に喘ぐ最中で…

[memorandum]

天下すべての人がみな、美を美として認めること、そこから悪さ*1(の観念)が出てくる。(同様に)善を善として認めること、そこから不善(の観念)が出てくるのだ。まことに「有と無はたがいに(その対立者から)生まれ、難しさと易しさはたがいに補いあい…

月から始める

月が随分と綺麗なので満月かと思っていたが、月齢を調べると満月は週初めに疾うに過ぎ去っており、今夜は臥し待ち月であった。老舗の和菓子屋へ入ると、昔ながらの木型が展示してあった。良く手入れされている木材の肌理や、型の比率が美しい。こうした繊細…

『ジル・ドゥルーズによるアベセデールA,B,C,I』ピエール・アンドレ=ブタン監督

東京日仏学院で『ジル・ドゥルーズによるアベセデール』のA,B,C,Iを観る。ABC(アー・ベー・セー)とは、エレメンタリーを意味する言い回しであり、日本語で言うなら「ジル・ドゥルーズ入門」とでもなるのだろう。死後に放映されることを条件に撮…

ある種の物分りの良さとは、盲目の裏返しである。

道端に地蔵在り赤青黄

好き嫌いを言う子供を持つ親のための問答集

朝の食卓にて子) 例えバターがあるとしたって、薄いパン一切れでは食事を取ろうとする気さえ起こらない。まずパンに付けるマーマレードが見当たらないし、卵にベーコン、コーンフレークまたはホットケーキのひとつ位、それから牛乳と食後のコーヒーかオレン…

眼にもまた、異様なことが見えはじめた。子供たちが、そういうふうに空を見あげて坐っていると、星のむれのただなかに、ぽっとうすい光がひろがりはじめて、それが星から星にかけて、ゆるい弓形をはりわたした。それは緑いろにひかって、ゆるやかに下の方へ…

ウィリアム・フォーサイス

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メゾンエルメスで、フォーサイス振り付けによるダンスの映像を観る。ダンサーには、コレオグラファーによってプログラミングされた身体の動きを機械的に上演することが求められている。物凄いスピードで数センチ間隔での狂いの無い演技が、複数のダンサーに…

脱主体的表現の二様態

リチャード・ブローティガンの小説、『西瓜糖の日々』において、世界は西瓜糖で満たされている。周囲に西瓜畑があるという記述はあるものの、西瓜糖が西瓜に由来しているのかどうかについての説明はない。iDEATH(地名)の人々は、この有機物が解体した後で…

PUNCTUM TIMES 第四号

PUNCTUM TIMESの第四号が発行されました。http://www.punctum.jp/times.html「アートと資本主義」の第四回を書いています。今回は、商品交換の底流に潜む無関係性とマルセル・デュシャンについて論じています。 特集:鈴木理策

画廊逍遥

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PUNCTUMで東京8x10組合連合会 「Tokyo 8x10」展。大判カメラで丁寧に撮影された写真が並ぶ。機材の性質上機動力はないが、その代わり、きちんと対象を見て撮るという、基本に忠実な姿勢が美点として浮かび上がる。動かない画像を隅々まで眺めることができる…

今年の四月に参加した展覧会、「零のゼロ」*1のカタログが発行されました。その中に、「主体が孕む2種の機制」というタイトルで、短い文章を寄稿しています。国民国家をひとつの象徴として語ることのできるような主体性ではなく、また主体性を完全に放棄し…

青山二郎 北大路魯山人

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世田谷美術館で「青山二郎の眼」展を観て、その足で日本橋三越の北大路魯山人展に行く。世田谷美術館のある砧公園は、小学生の頃毎年遠足で訪れていた場所であり懐かしい。子供のころは、公園が果てしない大草原に見えたものだが、今見ると、昔の記憶に比べ…

ラジオ

真夜中に、ラジオでバッハの特集がかかっていた。ゲストの話によるとバッハは、当時流行していた他のバロックの作曲家たちによる絢爛な音楽に背を向け、一人音楽の構造美に徹した地味な教会音楽を毎週のように作曲していたという。そのことが、20世紀に入…

車窓より見透す花火半月橋

夕立ち

突然の夕立ちは日の暮れ行く空の背中を押すように、あたりを一瞬で暗くした。雨が数滴落ちてきた段階で、乾いた空気中を閃光と雷鳴が断続的に通過する様は空襲のようで(光が到達してから音が来るまでの間を数秒数える)、水平にやってくる光が木立のシルエ…

内海聖史 カズヒコ カケガワ

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GALERIE ANDOで内海聖史展。作品の形式は、前回の資生堂ギャラリーでの個展を引き継いだ形となっている。前回も今回も、壁面の大きさに沿って作品の大きさが決められており、前回の巨大な作品で使われていた大きめの丸い筆触は、今回、作品の大きさが縮小し…

岡崎乾二郎「ZERO THUMBNAIL」展 A-things

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岡崎乾二郎作品の大きな特徴として、表現主義的な絵画のストロークを分析し、それを元にストロークのフェイクを再構築して画布上に構成するという、間接的な手法が挙げられるだろう。このことは、リキテンシュタインが抽象表現主義絵画のストロークを漫画風…

牛乳は、水にしちゃまずい水だと思って飲みます。 『蒼蠅』熊谷守一(著)

真横から句稿覗きて五七五

四方より波砕け来て遠くに船浮かぶ(横浜にて)*1 *1:帰り際に、道路側から見た良く晴れた山下公園は、スーラの「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」のようだった。スーラは太陽が強く照りつけた時の光の中にある陰影や、影の中に生じる様々な色彩を巧み…