ヴァレリー・アファナシエフ
神奈川県民ホールで、ヴァレリー・アファナシエフのピアノリサイタルを聴く。プログラム前半のどこまでも繊細で優美なワルツと、後半の力強いポロネーズが対比される。曲調がどれほど異なろうとも、アファナシエフがピアノへ向かう不動の姿勢は変わらない。舞台の袖から歩いて真っ直ぐにピアノの前へ座ると、別段の準備もなく直裁に曲の世界へと入ってゆく。演奏を聴く者はそこに、ショパンによって書かれた美しくもランダムに乱れ飛ぶ様々なる音階が、一人の演奏者によってまるで一本の直線のように秩序づけられ、演奏者が緊張感を持って「成る」という別の領域へと飛翔する現場を目撃することになるのである。アファナシエフはプログラムに寄せた文章の中で、「芸術は紛れもなく統合された領土をもっている」というブラームスの言葉を引用しているが、曲が奏でられていた時間を、後から振り返って思い出そうとする時、そこには確かな記憶化された時間が、ある纏まりを持って感知されていることを私は自身の内側で意識する。