ラジオ

 真夜中に、ラジオでバッハの特集がかかっていた。ゲストの話によるとバッハは、当時流行していた他のバロックの作曲家たちによる絢爛な音楽に背を向け、一人音楽の構造美に徹した地味な教会音楽を毎週のように作曲していたという。そのことが、20世紀に入ってからも、バッハをモダンな再解釈に対して開き、作曲された時点で想定されていたものとは異なる楽器や、果ては声楽などによるハードで多様な実験にも耐えうる可能性をその楽譜に与えるところとなった。2時間弱の番組は、グレン・グールドによるただの速さではない、滑るような速さの「ゴールドベルグ変奏曲」からはじまり、その構造を愛でるように一音一音が立ち上がってくるかのような、後年のゆっくりとした同曲の演奏で終わった。様々な解釈を許容するバッハの音楽に沿った、良くできたプログラムであったが、番組を聴く間中感じていたのは、グールドの演奏にあるような音の微妙な振幅を許す隙間のようなものはラジオとの親和性が非常に高いのではないかということだった。映像メディアとは違い、ラジオは耳しか支配しない。また、耳は非常に受動的な器官であるので、ヘッドフォンなどの特殊な装置を使用しなければ、生活の中の音や自然のたてる音を遮ることも難しい。ラジオは眼が他のものを見、身体が他のことをし、場合によっては耳が他のものも同時に聞いているなかで聴かれるハイブリッドなメディアであると言えるだろう。映画が観る者をメディアのなかに没入させ、主体が発動する契機を奪い、また夥しいイメージの変遷が生が持ちうるフォルムを失わせ、死の到来を予感させるのとは反対に、ラジオは俳句で言う「生き物感覚」のようなものを、その隙間から雑草のように自然と立ち昇らせる。

  雑踏を行き交う人の蝉時雨