内海聖史 カズヒコ カケガワ

GALERIE ANDOで内海聖史展。作品の形式は、前回の資生堂ギャラリーでの個展を引き継いだ形となっている。前回も今回も、壁面の大きさに沿って作品の大きさが決められており、前回の巨大な作品で使われていた大きめの丸い筆触は、今回、作品の大きさが縮小したことに合わせて、極小の丸い筆触に変化して展開している。作品の大きさが小さくなっても、その分筆触が小さくなり、色彩の置かれる密度の高さも変わらないので、作品のスケール感は変化していない。おそらく、内海氏にとってイメージとは、身体的な制約を度外視した場合、原理的には、いかようにでも拡大縮小できるものとして捉えられているのだろう。そのように絵画的イメージを、まるで鏡の中にあるかのような底無しの反映の中で変換させてゆくという作業が、どこに行き着こうとしているのかは未だ定かではないが、バーチャル・リアリティーのように身体感覚が捨象された、純粋な眼(知覚)のようなものを志向していることは朧げながら予感することができる。

中野画廊アヴェニューでカズヒコ カケガワ作品展。風景画や人物画などの具象的なイメージが並んでいる。画廊の方のお話によると、カケガワ氏は過去に於いて長らく抽象に取り組んでいたとのことだが、それに頷けるようにどの具象的なイメージも、一度抽象的な形態として還元された上で、風景や人物として配置され直していることが明確である。そうした意味で、セザンヌと同様の問題構成の中にいる作家と言えるかもしれない。カケガワ氏の絵では、人物が人物であるという慣習化されたイメージを即座に喚起せず、周到な形態の組織化が目前で展開されており、それが人物を意味し、また風景を意味すると了解されるのは、記号的な習慣的反省を見る側が事後的に促した時である。そうした観点からは、カメラ・オブスクラを用いて作画を行ったフェルメールとの類似性も指摘できるだろう。実際、眼に見えて両者の絵に共通する点として、画面内における適切なモチーフの配置が挙げられる。問題を単純化した安易な還元主義に陥らず、現代に於いても複雑な振幅を内に孕みながら、科学的な反省に基づいて絵を描く作家の存在に新鮮な驚きを感じた。