死と眠り

 政治事件によって逮捕され、死刑判決を受けたドストエフスキーは、刑場で銃殺刑に処される寸前になって、皇帝による恩赦を受け、開放される。その瞬間のドストエフスキーは、いったいどのような「状態」にあったのか。一切のものを食べず、空腹に喘ぐ最中でさえ、人は生きるという欲望に突き動かされることで*1、生を享受しつづける。死刑の判決を受けるということは、そのような最低限の生の享受さえもが、突然何者かによって奪われるということである。一切の生の享受が断たれた暗闇には、それをもたらした当の言葉による宣告や、生を具体的に奪い去る刃物によっても近づき得ない閾が横たわっている。享受される生は、生きるために食べるという代わりに、絵を描くことによって生きるという倒錯をも許容するような深さを持って死の前に立ちはだかる。しかし、そのような閾は無常なる自然によって常に容易に反転され得るだろう。死刑の宣告は、そのような自然を演劇によって模倣することに他ならない。「明日が来ては去り、明日が来ては去り、そしてまた明日が来る」*2というマクベスの一節に触発されて、「朝起きると驚きます、まだ生きていると」と言ってみせるフランシス・ベーコンは、恩赦を受けた時のドストエフスキーに辛うじて近づいている。黒が闇に溶け込むのに似て、睡眠は死の代替物としての役割を持っており、眠りから覚醒への切り替えが、死から生へと奪還した時の色彩の蘇りとして、我々にドストエフスキーの経験を追体験しているのだと、思い込ませようとする。

*1: 同時に生を放棄することによっても

*2: To-morrow, and to-morrow, and to-morrow