画廊逍遥

 PUNCTUMで東京8x10組合連合会 「Tokyo 8x10」展。大判カメラで丁寧に撮影された写真が並ぶ。機材の性質上機動力はないが、その代わり、きちんと対象を見て撮るという、基本に忠実な姿勢が美点として浮かび上がる。動かない画像を隅々まで眺めることができるという、写真の快楽という面から判断すると、井上智之氏の作品が気になった。

 南天子画廊で水上央子展。水滴を拡大したような雲形の曲線と、ジグザグに変換して進む縞模様、それに小さな水玉模様が同一の画面上にせめぎ合っている。そのような造形上のコンフリクトが破綻に追い込まれる寸前でバランスが取られ、画面を成立させている。デ・クーニングにも通じるようなタイトなデザインだが、色彩のまとまりにも助けられている。

 INAXギャラリーで多和田有希展。熱狂するスタジアムの群集の写真を下敷きに、その一部を消しゴムで消去し、無数の光を画面に導き入れることで、群集の熱狂が宗教的な熱情に変換されたかのように見えてくる、錬金術的な作品である。子供のころ、岡山の大原美術館で見た地獄・煉獄・天国が描かれた絵画を思い出した。

 アートスペース羅針盤で中風明世展、隣のビルにある青樺画廊で奥田美樹・富田絵里子展を観る。

 画廊轍に行くと、店主が客に江戸時代の木彫りの大黒様を見せていたので、便乗して見せて頂く。どれも無名の大工が手遊びで彫った物らしいが、木喰仏のような素朴な造形で、皆良い表情をしている。大黒様は生活のなかで燻されて真っ黒に変色しており、炭に鑿を入れたかのように見える。

 GALLERY無境で、昭和初期のものと言われるガラス製の皿、魯山人の茶碗、有元利夫の銅版画。ガラス皿は薄く青色掛かっていて、高台を中心として左右に微妙に歪みがある。皿を包んでいる曲線も手作りならではのものだ。有元の銅版画は数センチ角の小品ながら、繊細な人物の描線が豊かなボリュームを生み出している。

 メゾンエルメスでホルへ・パルド展を再度観る。木製の複雑な曲線状のパーツが組み合わさって出来たオブジェと、紙で出来た箱状のオブジェが会場の床を埋め尽くしている。組み合わせ如何で、様々な形態が出来上がるであろうと想像される作品の形式によって、以前観に来た時とは微妙に形体が変化しているような錯覚に襲われる。帰りに一階の店舗でスカーフのカタログを貰った。「IN THE POCKET」と題された、一枚のデザインが眼に留まる。スプーン、糸巻き、クリップ、絵具の空きチューブ、ボタン、本の切れ端、タグ、貝殻、ねじ巻き、羽根などが、一枚の布の上に整然と配置されている。芸大美術館での「金刀比羅宮 書院の美」展で見た若冲の「花丸図」も、襖の上に無数の植物が均等に配置された絵柄だった。作図上、無防備なまでに平坦とも言えるこれらの構成からは、反対に図と地が無限に乖離しているかのようでもあり、不思議な奥行きを感じる。マレーヴィチのシュプレマティズムの絵画もこのような観点から見られることが正解と思われる。