『ジル・ドゥルーズによるアベセデールA,B,C,I』ピエール・アンドレ=ブタン監督

 東京日仏学院で『ジル・ドゥルーズによるアベセデール』のA,B,C,Iを観る。ABC(アー・ベー・セー)とは、エレメンタリーを意味する言い回しであり、日本語で言うなら「ジル・ドゥルーズ入門」とでもなるのだろう。死後に放映されることを条件に撮影されたこの映像は、かつての教え子であるクレール・パルネによってインタビューされ、アルファベット順に従って任意に選ばれた主題について、ドゥルーズ自身が肉声で語るというものであり、著作とは異なる平易な語り口が印象的だ。しかしこれを、文字通りドゥルーズの思想を学ぶための入門教材として観てしまうなら、その面白さは半減し、書く人であるドゥルーズが映像という異なるメディアに自己を投企*1した意味を見失うことになるだろう。いったい自身の姿が、死後に放映されるというのはいかなる事態を意味しているのだろうか*2。この作品は、ドゥルーズのアパルトマンで撮影された。カメラの前にはタバコの煙を立てながらインタビューするクレール・パルネの後姿と、その向こう側にカメラを向いたドゥルーズが座っている。そしてドゥルーズの頭の上にある鏡には、クレール・パルネの顔が映しこまれている。しかし、ドゥルーズとパルネを撮影しているはずのカメラの存在は鏡にも映っておらず、我々が映像を観ている場所=カメラが据えられた位置は不在を告げたまま、二人に反射した光を無言で吸い込んでいるのである。期せずしてか、周到な舞台装置によって象徴されていたかに見えるこのような事態は、書くこと=語ることが常に確定された宛先を持ち得ないことを指し示している。発語とは、着地する場所を持つか否かの保障が失われた中空で繰り広げられるアクションであり、語る者は原初の言葉など存在せず、過去から一度たりとも確定せず、これからも決して確定することなく続いてゆくだろう「意味」との間で距離を測りつつ歩いてゆく。それは、ドゥルーズがAの項目で動物(Animal)について語ったことと似ている。ドゥルーズはユクスキュルの本の中に登場するダニの生態を引き合いに出す。ダニは光と体温と触覚という3つの感覚だけを頼りに生きている。ダニは光感覚を使って適当な高さの枝先に登り、そこで真下を動物が通るまで何年でも待ち続ける。下を動物が通ろうとすると、ダニは鋭い温度感覚によって動物の存在に反応し、その上に素早く飛び降りる。そして触覚を利用し、体毛の少ない場所を探り当て、動物の皮膚の中に頭ごと突っ込むと、その血液をたっぷりと吸い込むのである。血液を十分に吸い込んだダニは地面に落ち、卵を産んだ後、死を迎える。ドゥルーズは、全的な知覚を有しているという幻想を持つ人間に比べて、ダニが持つ限定的な知覚のあり方を賞賛している。人間であるという全的な幻想を捨てて、「動物になる」(=哲学者になる)ということは、自身が限定された知覚の只中に於いてあるということを引き受けつつ、もう一度生を生き直すということである。常にマイナーな哲学者や文学者の言葉を頼りに、それを新たな概念へと鍛え上げたドゥルーズの映像における発語には、意味を発するものと受け取るものとの間に横たわる、果てしないクレバスを意識しているかのような裏切りが存在している。言葉に於ける紋切り型が、イロニーの作用によって無限に反転を繰り返すように、スクリーンに映し出されるドゥルーズは笑いの中で絶えず変化する。我々は、鏡という舞台装置が据えられた部屋の中で、フランクに語るドゥルーズの顔を見、そして鏡に映った不鮮明なパルネの顔を見ているうちに、正面から見据えていたはずのドゥルーズの存在が、いつしか消え去っているかのように感じることに思い至るのだ。

*1: ハイデガー

*2: 実際には、晩年ドゥルーズが病に臥せる中、家族のたっての希望によって生前にテレビ放映された。しかし、撮影された時点においては死後に放映されることをが意識されており、また作られたものは本質的に死後において他者に享受されるものであるとするならば、論旨に特段の影響は与えないものと思われる。