脱主体的表現の二様態

 リチャード・ブローティガンの小説、『西瓜糖の日々』において、世界は西瓜糖で満たされている。周囲に西瓜畑があるという記述はあるものの、西瓜糖が西瓜に由来しているのかどうかについての説明はない。iDEATH(地名)の人々は、この有機物が解体した後でもなお、恒常性を維持しているように見える、奇妙な可塑性のある物質によって、家や身の回りの物の全てを作っている。忘れられた世界という名において、外側への通路が辛うじて確保された中で、人々は西瓜糖という無限の富によって閉ざされた世界に生きている。

 上野の森美術館ギャラリーで、金沢健一展を観た。バネによって浮かされた鉄板の上に塩を撒き、細い鉄線で巻かれたスーパーボールで鉄板の端を擦ると、一定の波動が鉄板全体に伝わって、撒かれた塩が様々な幾何学模様を描き出す。環境(構造)自体が可塑性を持ち、アリーナを支配するという意味では、隠れた法則を孕みつつも西瓜糖という無言の物質によって喉元を絞められているiDEATHの人と街は、金沢氏の作品と似ている。『西瓜糖の日々』では、コミューンが本質的に抱えている暗然たる先行きが、ある種自虐的に描かれているのだが、主体が殺された中での表現が持つユートピア/ディストピアという方向性を両者の作品はよく指し示しているように思う。