月から始める

 月が随分と綺麗なので満月かと思っていたが、月齢を調べると満月は週初めに疾うに過ぎ去っており、今夜は臥し待ち月であった。老舗の和菓子屋へ入ると、昔ながらの木型が展示してあった。良く手入れされている木材の肌理や、型の比率が美しい。こうした繊細な職人の技術が工業に於ける金型生産へと受け継がれているなどと書くと、予定調和に過ぎるだろうか。亀倉雄策がデザインした東京オリンピックのポスターを見たスイス人のグラフィックデザイナーが、亀倉にどのような黄金分割を用いたのかと問うたところ、「そんなもの使っていない、直感だ」との答えに驚いたという話をインタビューか何かで読んだことがあるが、日本には伝統的な尺貫法が長く用いられていたために、欧米からモダンデザインの思想を受け入れた時点において、ひとつの捩れが存在している。そういえば、政府が尺貫法を公式に禁止した後にあっても、紙幣など官製の工業製品には尺貫法を利用し続けているものが多いという。そのような状況は、モダニズムの建築を受容した後で、千年以上の歴史を持つ大文字の「日本建築」を語ることの困難にも通ずるものがあるだろう。モダンデザインの内部においても、モデュロールなどを通してモダンデザインをギリシャ建築にまで繋げて普遍性を主張しようとするコルビュジェのような人物もいれば、近代建築こそが異端であり、まずもって大文字の建築こそが主張されなければならないと考え、近代建築の文法の中にバナキュラーな要素を積極的に持ち込もうとする藤森照信のような人物もいる。細分化され、蛸壺化された議論を時折取っ払うことも必要なのかもしれないが、しかし最近は、展覧会の企画なども安易に「大文字」を主張し過ぎていて大味な印象が拭えない。代表的なキーワードは「アジア」や「日本」といったようなものだろうが、展覧会の実情を見ていると、「大文字」はすでに個人にまで及んでいて、「大文字」の若冲やら「大文字」のフェルメールといった事態にまで状況が進んでいはしないだろうか。観に行く展覧会の選択が、観る者の趣味を語るというスノビズムは、いつしか無効となってしまった。日本で美術運動をやろうとすると、全てが祭りになってしまうという現実は既に皮肉を通り越している。しかしそれは、ようやく個人がよりよりパーソナルな価値判断に基づいて、他なるモノと出会うことが可能な時代になったのだということを、信じるための条件でもあるのだろう。