ウィリアム・フォーサイス
メゾンエルメスで、フォーサイス振り付けによるダンスの映像を観る。ダンサーには、コレオグラファーによってプログラミングされた身体の動きを機械的に上演することが求められている。物凄いスピードで数センチ間隔での狂いの無い演技が、複数のダンサーによって重ね合わされ、観る者の動体視力が試されるようにして、大量の情報が真っ直ぐにこちらへとやってくる。自己の中に他なるものを抱え込んだ形で、予想外の動きを発動する身体の自律した運動を完璧に制御できる者はいないが、フォーサイスの振り付けにおいては、とりあえずそのことは括弧に入れられて、純然たる動きが抽象化され、観客の視線が向かった先々で、常に豊穣なるアクションが当たり前のようにして展開されている。いや、「他なるもの」はダンサーと観る者との間においてこそ、発動していたと言えるのかもしれない。事実、ダンサーの激しい動きをスクリーン上で注視している間中、私の身体の結節点がダンサーの動きに触発され、自律した動きを行おうとすることを、私は完全には制御することができなかったのだ。一見、明示的に見えている事態とは異なる情報の在り処や行方を追跡すること。例えばそれを孤独と言い換えても良いのだが、今は読むことの快楽に導かれる場所とだけ言っておきたい気がしている。