画廊をみて歩く
秋山画廊で祖母井郁展。ギャラリーの空間に対しては、小ぶりの立体造形が3つ配置してあるさっぱりとした展示で、一見さっと見れてしまいそうな印象だが、ゆっくりと細部の素材感に目をやっていると、立体の外側の空間に横顔の形が浮かび上がってくる。どの作品も物体にまといつくネガの形に対して、神経が行き届いている。空気の造形同士がつながりあって、ひとつの展示を作り出そうとしていた。
なびす画廊で竹内義郎展。画面の中央に、油彩で装飾的な鏡の縁のようなシンメトリーの図形が描かれている。明示できることを担保に、見えないものを召喚しようとするという意味では、以前同画廊で黒川弘毅展を観たときの感想に近い印象を持った。http://d.hatena.ne.jp/uedakazuhiko/20070127/p1
宗教画のように明確な目的意識をもつのではない、抽象画を制作するにあたって、最初から観念として到来するであろうものを念頭に置くことは、結局質的転換を引き起こさない循環に嵌ってしまうのではないかという疑念が私には拭えない。
ギャラリー山口でイ・ハジャ展。システマティックに数合わせをするかのような、刷毛を使ったアクリルの大作は感心できなかったが、パステルを作ったドローイングの小品は興味深かった。
南天子画廊で伊部年彦展。円や方形のような幾何学を崩したような造形の中から人体らしき形態が生まれている。ここでは、西洋画の伝統のように、人体が画題の中心に据えられているのではなく、あくまでも形態操作から派生してゆくように、画面における人体の問題が再検討されているように見える。そうした意味で、マティスがデッサンにこだわりつつも、人体を抽象的な造形の問題としても処理しようとして、引き裂かれたことを思い出させた。
PUNCTUMで小原かよ子「水鏡」展。様々な風景が映りこんだ水面を複数枚の写真で撮影している。同じ場所を撮影していても、角度や時間が異なることで、写真同士の間に微妙な視差が生まれている。カメラをまるで鏡のように扱うことで、作品に偶然性を呼び込み、作者の主体性について意識を巡らせていることが推察されるが、そのことは同時に、写真に分かちがたく付随する選択の問題が厳しく作家に突きつけられることにもなるだろう。