二重の政治に潜む落差を意識すること

 作品に少しでも分節可能な構造を意識するのであれば、すでにその背後には政治が迫っている。政治に対して向かい合うか否かは、主体にとって選択可能な問題ではなく、方法を意識した制作そのものに予め織り込まれているものと見るべきだろう。政治という言葉の難しさは、それが単純な縄張り争いといったレベルに終始するのではなく、身体や行為自体にプログラムされていることだ。予め、形式と政治を可能な限り分類しておく必要があるのはそのためである。
 ルネサンスや近代絵画などに起こった造形的運動を、私的な趣味判断や衝迫によって単に反復する者は、それらが歴史的に成立した政治性を見逃している。描くという純粋な行為や、虚心に見ることのみを称揚するのであれば(それらは特に希有な事件ではない)、敢えて言葉を紡ぐ必要はないし、政治性を意識しないことによって別の単純な政治にさえ捕らえられてしまうことに留意すべきではないか。作品を内側からのみ記述できるとする立場が、時にフィクショナルなパフォーマンスに終始しがちであることを確認しておきたい。そこには批評が欠けている。