さてヤハウェ神が言われるのに、「ご覧、人はわれわれの一人と同じように善も悪も知るようになった。今度は手を伸ばして生命の樹から取って食べて、永久に生きるようになるかもしれない」。ヤハウェ神は彼をエデンの園から追い出した。こうして人は自分が取られたその土を耕すようになったのである。神は人を追い払い、エデンの園の東にケルビムと自転する剣の炎とをおき、生命の樹への道を看守らせることになった。
『創世記』 第三章 堕罪
 ヤハウェは地上に人の悪が増し加わり、その心の図る想いがいつも悪いことのみであるのをご覧になって、ヤハウェは地上に人をお造りになったことを悔い、心に深く悲しまれた。ヤハウェが言われるには、「わたしはわたしが創造した人を地の面から絶滅しよう。人のみならず、家畜も這うものも天の鳥もみな滅ぼしてしまおう。わたしはそれらのものを造ったことを悔いているのだ」。しかしノアはヤハウェの前に恵みを受ける者となった。
同書 第六章 ノアの洪水 関根正雄訳

 また、これに加えて、人間の出来がこのように悪いところへ、その国政がまた悪く、悪しき言論が、国家で、公私ともに語られ、しかもなお、こうした害悪を癒す薬となるような学課が、若い時から少しも学ばれないのだとすると、そのような条件のもとにあっては、われわれが悪くなるにしても、誰しもそのように悪くなるのは、ひとえに、われわれの意志にまったく反した二つのもの(悪しき身体構造と、悪しき育ち)の故だということになります。だから、こう言ったことの責めは、常に、生まれる子供よりも、むしろ生む親たちに、また、養育されるものよりも、むしろ養育するものたちに求めなければなりません。しかしそれでも、可能な限りは、養育を通じ、また、日々の営みや学課を通じて、悪を避け、その逆*1を捉えるように心がけなければならないのです。
プラトン『ティマイオス』 種山恭子

 

*1:ティマイオスの中で語られる、理性や幾何学に関する知識は、放置しておけば跋扈してしまう「悪」にたいする矯正装置(逆説)のひとつとして捉えられているように思われる。見るという行為に絶対的な信認を置くことできない以上、人は数学のような抽象によって、真理に近似した対象の姿を想像しようとする。