VOCA展2008 上野の森美術館

 上野の森美術館VOCA展2008。なぜ平面なのかという疑問をとりあえず置いておくとして*1、様々な傾向の作品が並列的に展示されているなかで見えてきたのは、「何を描くか」と「いかに描くか」が対立していたということだ。「いかに描くか」という課題が前景化されている作品(ほとんどは抽象)においても、個々の手法の連携が最終的に、(結果は異なりはしても)ある種の目的(「何を描くか」)へと結実していることが必要に思われるが、それらの作品の多くは未だ手法や効果を試す域に留まっているように見えた。その点、「何を描くか」が最初から前景化されている具象的な作品の中に面白いものがあった。

 山内崇嗣は、巨大なキャンバスに植物の一部分を虫眼鏡で拡大したように描いている。結果として、見慣れない異様な形態がシンメトリーに画面を覆っており、絵画によって何を見るのかという意味でのフレーム自体が問いなおされているように見えた。それは、これまで絵画的な視覚が抑圧してきたものを注視することによって、精神分析的な問いを呼び込むことにもつながるだろう。

 三宮一将。キリストの磔刑図を期待していたのだが、割合穏健な作品が選ばれていた。青を基調とした画面の中に、階段を下りる女性が描かれている。建築は実際のスケールよりも広く感じられるように、微妙に歪んで描かれている。画面の様々な場所に、キリストを意味する文字や光が隠されるように描きこまれており、油絵のタッチを眼で追うことと、作品の意味とを同時に読み込んでゆけるような奥行きのある仕掛けとなっている。もう一点は、一見テーマとは関係のない飛行場がモチーフとなっているが、間接的な上記の作品よりもこれくらい韜晦であるほうが三宮らしい。自身の日記的な過去を織り込む手法は、野田哲也からの影響を思わせる。

*1:なぜこのような問いが提出されねばならないのか。それは、もしVOCA展の副題にある「新しい平面の作家たち」という言葉が、無批判且つ凡庸に、新たな平面作品の登場だけを待ち望んでいることを意味するとするなら、そこに平面というイデオロギーの存在を認めざるを得なくなるのと同時に、主催者側が、(平面)作品が成立するための根拠を制作の中で問うという、(作家性に関わるはずの)作家の行為に対する抑圧を無意識的にであれ強いる結果に繋がる可能性があるからだ。そのような恣意的な条件付けは、優れた作品が生産されることに対して、何らかの足かせとなりはしないだろうか(真に優れた作家は、どのような障害をも乗り越えるものであるということを前提にしたとしても)。