山田正亮 須田悦弘 蔡國強

画廊轍で山田正亮展。今回は、ストライプ絵画に焦点をあてた展示である。山田作品の中では、60年代初頭の約2年間程に集中して描かれた、多色ストライプの作品をもって嚆矢とするという画廊主の話を聞きながら観覧する。雪舟等伯が中国の水墨を日本の風土に着地させたように、山田は西洋で興った抽象という文脈を日本的な文法の中で展開したとする画廊主の持論に素直に頷きたくなる程、系統だてて丁寧にコレクションされていた。山田の日本的な特質を挙げるとすれば、キュビズムモンドリアンのように意志的に構成された抽象ではなく、柳宗悦が工藝美や民藝美の特徴として挙げている「単純性」*1や「反復性」*2といった、無私の領域から沸き上がって来る造形性があるだろう。事実山田の絵には、初期の具象的な作品の頃から変わらない色彩や線の動きといったものが一貫して流れており、時節によって変化する手法は受動性の中で展開する複雑な移動の痕跡なのである。展示とは別に、倉庫から出して見せて頂いた、白色の絵具が塗込められた作品やアルバース風の方形の作品も見飽きない質を持っていた。

ギャラリー小柳で須田悦弘展。木彫で繊細精工に彫られた草花が、無機質なギャラリーの空間に設置されている。須田氏の作品は、一見場を前提としない、どこにでも設置し得るフレキシブルな彫刻のように見える。しかし、草花の彫刻が全き自然の最中に置かれたならば、その印象は、埋没か滑稽となって観るものに映ることだろう。そうした意味で、一見可動的な特質はフェイクであり、実はコンクリートホワイトキューブといった「現代的」な空間に極めて依存した形式であることが見て取れるだろう。このように、狭義の「インスタレーション」という展示形式に過度に依存した方法は、作られた彫刻自体にも問題を発生させている。一見繊細な外観とは裏腹に、「技術」の存在を感じられないのは、須田氏の彫刻には古典木彫が持っていたような様式が欠如しているからである。無機質な空間に、異化効果を齎すことが作品の至上命題とされたために、木彫が単なるリアリズムに堕し、様式としての洗練が期待出来ない袋小路に陥っているのである。彩色も美しいとは思えなかった。

資生堂ギャラリーで「時光-蔡國強と資生堂」展。ビデオによって、これまでの活動を振り返る展覧会で、会場には火薬を爆発させて作られたドローイングの新作が展示されている。ビデオで次々と流される火薬の爆発は、スペクタクルとしての美を誇っており、なかなか見飽きない。しかし、ライブでの事件性が重んじられる作品でありながら、作家が火薬が爆発した結果として残されたものを作品化しようとする意志には疑問が多々生じて来る。作家は、爆発させた痕跡に風景や生き物の形の再現を見ようとしているのだが、そのことが「作品」にどっちつかずの印象を与えており、爆発というスペクタクルを見せたいのか、火薬の痕跡によって絵画を制作したいのかが今一つ分かりかねる結果を残している。最後に残された解釈の余地は、遊び自体がアートであるというコンセプトに収斂してゆくのだろう。

*1:「だが健康の美はどういう姿において現れるだろうか。もしもそれが至難なものであったり、複雑なものであったりしたら、可能なものとはなり難いであろう。だがそうではない。摂理の用意は充全である。単純さこそ健康の美に伴う著しい性質である。あの渋さの美も畢竟この単純さを欠いてはないではないか。無事の境地もこの性質の現れではないか。単純なものは単調なものという意ではない。凡ての無駄を省いた、なくてはならないものの結晶である。本質的なものの煮つめられた姿である。それは複雑を摂取した単純である。禅語を借りれば「一切を含む無」である」『工藝文化』柳宗悦(著)

*2:「瀬戸や品野で焼かれた石皿や行灯皿の絵附を見るとしよう。おそらくそれは日に何百枚と描かれたに違いない。いずれも当時の雑器である。非常な速さで数多く繰り返された品物に過ぎない。だがこのことは職人たちに充分な熟達を与えた。筆に十二分の自由を贈った。多く描かなかったら、そこに見られるあの筆致をどうして得られたであろう。反復こそは、別に才能のない彼らの筆に解放を与えた。技はいよいよ冴え、見ていると奇蹟が目前に行なわれている感さえするであろう。ほとんど無心にこだわりなく描けるまでに彼らの腕を高めた。その驚くべき速度、その淀みなき手さばき、描くことを忘れつつも描き得たほどの筆の確かさ。凡ては繰り返しを求める激しい労働の賜物なのである。量に交らずしては出ない美しさなのである。多くを作らねばならなかった職人たちの命数への、不思議な酬いであるといえないだろうか」(同上)