10話

アッバス・キアロスタミの新作は「対話仕立てのインタビュ−スタイル」とでも言えそうな映画の新しい形式を作り上げている。一人の女性がテヘランの街を自動車で走り続ける。助手席には、母親の新しい恋人に馴染めない息子が、信心深い老女が、失恋に取り乱す友人が、夜の街で偶然拾った娼婦が次々と乗り込み、ドライバーの女性と対話を交わす。固定されたキャメラは登場人物たちの一切の些細な仕種や癖も見逃さず、対話という「力」の運動を隅々まで写し出している。女性は、助手席の人々を諭し、慰め、時にはねつけられながらも、この世界で個々の意識が個別に体感するほかない普遍的で煉獄的な問いに巻き込まれてゆく。そして女性が様々な対話の中で関係こそが意識を解放するということを学んだ時、対立していた息子との人生も新たな段階を迎えることとなる。

キアロスタミの映画は常に、ドキュメンタリーとフィクションの間で作られる。多分に偶然性を導入した撮影条件の中で、キャメラの前で生起する様々な出来事が、キアロスタミの仮構した理念に合致したその時、作品は完結する。ここでは撮影されたどのようなショットも事後的に意味付けられることが可能だ。演出をしないという演出によって、どのような理念をも物語ることができるのだ。たとえ、それが愛の物語であっても。これは映画が誕生した瞬間に刻印された原罪なのだろうか。作品の背後には編集という魔術を知り尽くした男の不敵な笑いが透けて見える。逆説的な賛辞にもなりかねないが、キアロスタミほど胡散臭い映画作家がかつてあっただろうかと言っておきたい。

これは救いの映画だ。主題として子供を扱おうと、家族を問題にしようと、キアロスタミは今ある「状況」から決して眼をそむけない。各地で戦争の種が芽吹き、反植民地主義もなしくずしにされる現在、監督はイランの人々の活きた感情をまっすぐに捉えることで一つの回答を提出しようとする。キアロスタミの恐るべき知性は、怒り、泣き、笑う人間の普遍的な姿を選び取り、オリエンタリズム的な視線を見事にはねかえす力業を見せている。これは、語の最良の意味で、政治的な配慮が映画を貫いていると言えるだろう。主人公が奔流と化した感情の波を泳ぎきり、ラストシーンで対立から和解への徴がささやかに提示される時、きっと誰もが地獄の中にあってさえも、恩寵を信じることが許されているのだと感じるに違いない。

『映画の明らかさ』ジャン=リュック・ナンシー(著)