子規-蕪村と漱石

正岡子規によれば、蕪村が自身の俳句において、漢語や古語を多用したことは、作品を複雑化させるための意識的な選択だった。芭蕉の句にも、蕪村的な実験が無かったとは言えないが、次第に古池の句*1に代表される平明さへと収斂してゆくし、芭蕉以後、幾人かの俳人の中に、複雑化への萌芽は認められても、所謂形式として完成させ得た者は蕪村以前において絶無であった。漱石にとって、英文学は意識的な理解の対象であり、幼時から親しんだ漢文は環境のように自然に属するとする見方があるが、蕪村を中心として見た、江戸俳諧の地勢図から眺めるなら、これにも首をかしげたくなる。漢語や和漢の教養を小説へと過激に流入させ得たのは、子規-蕪村からの影響があってのことと考えるほうがしっくりと来る。漱石の漢文から英文への転換は、他なるものとしてのエクリチュールから異なるエクリチュールへの水平的な移動に過ぎず、むしろ注意するべきは、蕪村や漱石が他なる言語(漢文等)への垂直的な飛躍(批判)をなそうとした契機の方だろう。少し前に流行した日本語の音読という運動が、書物を視覚から解放し、物理的に口を動かすという批判的契機を度外視して、単に平明さ(音読し易さ=理解可能性への志向)を追求したり、このところ騰勢を強めつつある脳主義者が、意識と身体との捏造的な一致を安易に企てていることには、「政治的」な危機感を持って対処せねばならないのだろう。当初の批判的契機を超えて、主義へと堕したドグマとしてのアンチノミーも同様である。

『俳人蕪村』正岡子規(著)

『蕪村俳句集』与謝蕪村(著)尾形功(校注)

*1:「古池や蛙飛び込む水の音」芭蕉曰く「発句は頭よりすらすらと云下し来るを上品とす」