生命という策略

 近代美術館へ「生命という策略」というシンポジウムを聴きに行った。単線的に起点から終点へと歴史をたどるA系列(歴史という大きな物語を語る主体が要請される)ではなく、歴史として整列した事物の内の一項を一見自由に選べるかにみえて実は選択するたびに過去・現在・未来という時制が発生すると同時に主体が立ち現れるB系列でもなく、複数の系が並列的かつ複線的に発生してゆく複雑系的なモデル(C系列)を前提としなければならないという図式が岡崎乾二郎氏から説明された後に、個別の議論に入っていった。目の前にゴム製のフェイクの手を置いて、フェイクの手と自分の手を同時に刺激し、後にゴム製の手だけを刺激しても感覚を感じるようになるというラバーハンドという実証的な実験を紹介した、郡司ぺギオ-幸夫氏の発表は、一つと思われていた身体の中に複数化された主体が同時に生起するというC系列的な理論を裏付けるものであるように思われた。人体と見分けがつかないほど精巧に作られたロボットが出来上がってこそ、精神や魂を理解することが出来るという岡崎氏の発言は示唆的だった。ラバーハンド実験において見られるような、個別の器官に対する刺激の入力とその反応が複雑なフィードバックを起こし、身体の全体性を仮構することができるのだとすれば、理論的には自己を同期的に複製することさえ可能かもしれない。今後革命を起こすのは派遣社員でもプレカリアートでもなく、ミジンコなど他の生物やロボットであるという岡崎氏の予測の可能性はそのような観点において担保されうるであろう。

 生命・身体を科学的に解明することから、革命の理論が導き出されるなら、社会主義的観点からホモ・エコノミクスが安易に批判されてはならない。なぜなら、自由な経済主体こそが細胞となって、経済という身体を組織しているからである。中間団体なども、社会主義が変形した形で、経済という身体へと施される外科手術に過ぎないのであり、本質的な革命には繋がらないだろう。まさに、現在進行形で起こりつつあるのは金融工学の発達による経済=身体の危機*1であるが、このような事態が逆説的に示しているのは、破壊ではなく脱身体的で前進的な革命においてもまた、金融工学等が示したミクロな政治力こそが用いられなければならないという現実である*2

*1:実体経済に比して金融経済が過剰に膨張し、モダンな経済的身体を破壊した。

*2:大きな政治は既に力を失っている。大きな政治が終わった後でマイノリティーが大統領になるという茶番劇が今起こっている。