ギャラリエ アンドウで岡崎和郎展。岡崎氏の多くの作品には、版の思想とでも呼ぶべき内実があり、そのことが、作られるオブジェクトに完結性を与えつつも、同時にメビウスの帯のような区別的認識の不可能性を持たせている。今回の展示は「黒い雨」がテーマであり、忠実にトレースされた雨水の流れが立体的に形象化され、オブジェクト化された雨水それ自体に、形態としてのみならず、作品の構造を支える自律した機能をも担わせている。

 銀座の至峰堂画廊で海老原喜之助作品展。主に、晩年の馬をモチーフにした小品が並ぶ。小さい画面の中から、鮮やかな色彩とマチエールが突出してくるようだが、背後からデッサンによって構造が極めて明確に把握されているので、画面が混沌に陥ることがない。亀倉雄策洲之内徹は、薄塗りで洒脱な「エビハラ・ブルー」が特徴的である戦前の作品を評価し、戦後の作品には批判的であったと記憶しているが、私は海老原の晩年の作品を優れたものだと思う(蝶の作品は理解できない)。展覧会を見る前に、偶然江藤淳『アメリカと私』を読んでいたのだが、江藤は本の中で戦後の海老原の作品を「私有できる絵ではない」としながらも、「圧倒的な体験」を与えるものとして評価している。海老原に関する章は、読んでいて概ね頷ける記述であり、読み終えたとき、戦後の海老原を自身の眼で評価する江藤を、私は好きになっていた。この本が書かれた時代には、まだ知識人の役割という幻想が生きており、それを積極的に演じさえする江藤淳の背伸びをした姿は、読む者を息苦しくさせる。しかし、万葉集より連なる日本文学の存在を信じ、様々な場面で見え隠れする著者の細やかな感受性は、海老原の絵と同様、長い年月を経て、生きて私の元に届いたのである。