アートフェア東京・回想のヴィトゲンシュタイン

 アートフェア東京2008。面白かったのはhino galleryで観た高見澤文雄の複雑に絡み合う線をモチーフとした油絵と、角匠で展示されていた喜多川歌麿の『絵本小町引』、西川美術店にあった宋時代の漆器、「朱漆葵形盤」。同じ宋時代の黒漆の皿もあったが、並べて観ても時代を経た朱漆の色彩の美しさは格別と思われた。


 旧四谷第三小学校体育館で、岡崎乾二郎監督の8ミリ映画、『回想のヴィトゲンシュタイン』。1回の撮影が3分に限られたフィルムが20のつながりとなって、計60分の映画が構成されている。そもそも映画とは、ひとコマごとに切断された複数の時間が、強引に一本のフィルムへとつなぎ合わされたものであり、通常映画で1カットとして理解されているものは、実はその中に内臓された無数の独立したカット(コマ)の連続を人が「場面」という纏まりとして認識しているものに他ならない。岡崎氏の映画によって試みられていたのは、ひとコマごとに切断され記号化されたフィルムを、映写機という機械のリズムや挿入された音に同期させ、意味のズレをそれ自体として出現させることであったと思われる。実際映画の内容は、複数のコマが組み合わされて出来たフィルムという「システム」に打ち込まれた個々の命令を、映写機による連続した上映として演算してみせることに賭けられていたと言えるだろう。例えば映画の中で、「三拍子」という命令がスクリーン上に写し出されれば、地面に描かれた三角形の上を物体が同じリズムによって移動し、「四拍子」と写し出されれば、物体は四角形の上を忠実になぞるだろう。さらに、「石版をもってこい!」という命令が映し出されるなら、映画が終わるまでの間、折に触れてスクリーン上を走り去るウィトゲンシュタインを模ったキャラクターを、石版は執拗に追いかけ続けるのだ。

 われわれの言語を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令をたびたび下すのを聞いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない。 『哲学探究』藤本隆志訳

 ウィトゲンシュタインは上記の文章で、例え整合性のあるルールが与えられたとしても、そのルールに従った結果発生する事態は、行為する主体が命令を含む言語のルールをどのような方式として理解したかによって変化するという可能性を示唆している*1。岡崎氏の映画においても、下される命令はフィルムと映写機の論理に従って演算(上演)される*2。そればかりか、その論理は次第に制作する側である作者に対しても影響力を行使し、結果として、システムに基づいて、作者が唯物的に思考することさえもが導かれているのである。観客は、映画が成立するための基礎的な条件や、映画の論理というものがいかなる複合的な要素に基づいて構築されているのかということを、この作品を観ることによって理解することができるだろう。それは、作者が極力映画制作上の因習・道徳を排して、映画というシステムがもたらす論理に寄り添った結果、この作品が映画の解剖学とでも言いうる分析的様態を示すに至っていることによって説明することができる。

*1:人はルールに従うことはできても、ルールを成立させている根拠に至ることは出来ない。ルールの証明はルールが別の方式によって整合的に演算されることによって間接的に示される。(「すべてを録画する録画世界があったとすると、その世界にないのは録画することだけだ」)

*2:そこでは人間が持つ世俗的な常識や判断は一切排除されている