ガイサンシーとその姉妹たち

 東京しごとセンターで、班忠義監督の『ガイサンシーとその姉妹たち』を観た。班監督は、戦争中に日本軍から性的暴力を振るわれた中国人女性たちへの丹念なインタビューを重ね、日本では滅多に語られることのない性暴力の実態をあらわにしてゆく。映画の中に記録されていたのは、証言が証言を呼び、記憶が記憶を呼ぶという証言・記憶のネットワークとでも言えそうなものの存在だった。超越的な場所から歴史の真実を語ることのできる実体的な神が存在しないとすれば、そこで可能なのは共通の歴史を身をもって生きた者たちによる、連帯としての記憶を掘り返すことだろう。班監督を動かした、アリストテレス的な意味での知的な誠実さ*1は、判断停止の方便と化している相対主義*2に再考を促す力を持っている。映画の最後で、旧日本軍に属する加害者から引き出しえた証言は、恥辱を乗り越えて罪を認めることの困難さや、それを成し遂げることによる開放への可能性を、見出させるに足るものだと思わせた。

*1:班監督は来場者に配られた冊子に掲載されているインタビューのなかで、現実から目をそむけ続けることで日本人が今後も背負う可能性の高い重荷について心配している。

*2:日本における相対主義は、まるで緘口令が敷かれたかのような元軍人による沈黙と親和性が高い。