社会という自然

 プロイセン人(ルーゲ)は、政治的な判断や理解がないと革命は起こらないかのようにいうが、シュレージェンの蜂起をみても、労働者が政治的に目覚めて起きたわけではない。労働者が生活しえなくなった、その現実から起こっている。ルーゲは、政治的な意識と、みとおし、組織的な洞察をともなわない社会革命はありえないといっているが、そんな政治的蜂起は、仮にいかに普遍的で、どんなに立派な形をとっていても、そのかげに偏狭な精神をかくしているものなのだ。だから政治的な意識や革命意識に導かれた革命というものは、社会を犠牲にして、要するに新しい社会のなかに新たな支配集団を組織するだけのことでしかないのだ。

マルクス『批判的評論』

 社会を自然として形式的に捉えるマルクスの認識。全体を部分的認識の積み重ねによっては決して捉えることができないものとして捨象してしまうのではなくて、スピノザ的な神=自然(世界)のようなものとして彼方に確保しておくこと。そこから真の科学的態度が発生する。マルクスの哲学とマルクス主義との違いを理論としては知りながら、「実践」においてはマルクス主義を引き継がざるを得ないという陥穽に嵌った左翼知識人による革命運動がことごとく失敗した後に、「生活しえないという現実」から労働者による自律した「運動」が起こり始めていることは興味深い。何人も自然の創る波に抗することはできない。できるのは波の力を利用することだけだ。