横浜・ターナー賞

 Art Gallery山手で『山手の坂道と風景展』を観る。ギャラリーを出て、中華街が近かったので昼食に中華まんでも買おうと思い、朱雀門から入ってしばらく歩くと、威勢の良いおばさんに店頭で声をかけられた。客が他にいなかったことと、買う買わないの判断を飛び越えて「いくつ?」と聞いてくるおばさんの積極的な営業に負けて、その店で買うことに決めたのだが、これが失敗だった。商品の回転が悪く、余計な熱が入りすぎているせいか、中華まんの具と皮の分離が激しく、塩分のバランスも崩れており不味い。仕方がないので、口直しに別の店で小ぶりのものを買い、更に胡麻団子も食べた。やはり、人気のある店にはそれなりの理由があるものだ。

 中華街から六本木へ。みなとみらい線東横線に接続されたことで、随分便利になった。青山ブックセンターで、ラッセルの『論理的原子論の哲学』を買う。「事実と命題」や「タイプ理論とクラスの定義」などを扱っている古典的著作で、他の論者によって言及される回数も多いのだが、2007年に出たちくま学芸文庫版が本邦初訳である。

 森美術館で「英国美術の現在史:ターナー賞の歩み展」。この展覧会を見ると、英国の現代美術というものが、デュシャンからネオダダへと流れる文脈を通過して、新たな知覚の変容過程を報告し合うゲームとなっていることが理解できる。英国美術のパラダイムがこのような状況を選好した理由のひとつには、ブレア政権下の新自由主義政策からの影響があるだろう。新自由主義が依拠する新古典派経済学においては、貨幣を媒介とした自由な市場内競争の結果として「神の見えざる手」による均衡がもたらされると説く。あらゆる価値判断が、商品と貨幣の交換という単一性的な関係へと還元されてゆくこのような運動と、人間の持つ複雑な認識能力を、脳を中心とした知覚という単一性的なシステムへと還元する動きは、極めて親和性の高い関係にあると思われる。

 ダミアン・ハーストの「スポット・ペインティング」では、白地の上に任意に選ばれた色彩によるドットが縦横に整然と配列されており、画面を見つめていると、類似した色彩同士が複数のグループを束の間形成しては解体され・・・という動きが絶え間なく繰り返されているように見える。この作品を見た時、私は『探究II』にある次の箇所を思い出していた。

 スピノザの唯一の実体(神=自然)と違って、ライプニッツの実体(個物)は多数的であり、個別的である。しかし、各モナドは、同一の宇宙をさまざまに表出するのであり、各モナドには「窓がない」が、同一の宇宙を媒介して交通しあっている。そして、そこに「予定調和」がある。このことを具体的に理解するために、貨幣経済(古典経済学の見た)を例にとってみよう。そこでは、商品と商品は交換されない。つまり、各商品には「窓がない」。だが、各商品は貨幣と交換されることによって、結果的に他の商品と「交通」する。そして、そこにアダム・スミスがいうような「見えざる神の手」(予定調和)が働いている。各商品は、おのおの共通の本質(労働時間)を「表出」している。

 柄谷行人自身によって批判されているように、このような構図においては、「複数の関係項の諸関係が、一者との関係のなかに内面化され」、認識においても本来あるはずの「多数性や多元性」が失われている。

 このように、認識自体が単一的枠組みの中で動いてゆくほかないとすれば、すでに先は見えている。新しく生み出される作品が、いかに内側にイノベーションシュンペーター)の契機を抱えていようとも、それは古典派的パラダイムの延長にあることに変わりはない。ゆえに、デュシャンを通俗化したネオダダの論理(それはセザンヌを通俗化したキュビズムに似ている)が理論的に批判されなければ、現代美術という運動が孕む帝国主義的な構図は決して無くなりはしないのだ。