大分へ

羽田からスカイマークエアラインで福岡空港へ。スカイマークは安い運賃のかわりに、機内食も無く、飲み物も有料だが、過去の航空業界のような横並びを排し、利用者に選択の幅を与えるという点では評価できる。しかしそれは、市場での過当競争に晒された後でさえも、安全性を維持するという自律した企業主体が確保されていれば、という条件付きにおいてではあるが。福岡に近づくと、晴れていたので地表が良く見える。海は、明らかに羽田周辺とは異なり澄んだ色をしている。市内上空に入ると、色とりどりの建物や看板が、ミニチュアのように整然と配列されて見える。赤い鉄塔のようなものが多いという印象を受けた。空港から地下鉄で博多駅まで移動し、弁当を買って、交通センターから大分行きの高速バスに乗る。たまたま乗ったバスはガラガラであったが、交通センターを中心として、九州全域に高速バスによる交通網が整備されていることに感心した。バスに付いていたテレビ画面には「釣りバカ日誌」のビデオがかかっていた。そのルーティンによって、すでに完璧な「地」と化した、西田敏行三國連太郎に対して、ゲストである宮沢りえの、おっとりとした演技を「図」として浮かび上がらせるという趣向である。バスが市内を抜けて高速道路に入ると、海山の景色が眼に入って来る。山は、関東周辺のものに比べれば、奇岩と呼んでも良さそうな形態をしており、緑に覆われた道路周辺の斜面は、マティスが絵の中に戯画として描いた自身の人体彫刻のように、搗きたての餅を思わせる急勾配の滑らかな曲線を描いている。バスは二時間半程度で、大分市内に到達した。大分駅近くにトキハという大分では有名なデパートがあり、その前がバスセンターのようになっている。
「零のゼロ」展覧会会場は、そこから歩いてすぐの大分城横にあるアートプラザというところで、以前は県立大分図書館として使われていた建物である。60年代に建てられた磯崎新の初期の作品で、コンクリートによる近代建築という枠組みの域を出ないが、師である丹下健三のようなモニュメンタルな性質は影をひそめている。複数の導線を互いに貫入させ、建築を成立させるために全体のフォルムのうちのいずれかを代表させることなく、軽やかに構成されている。元々、展示のための場所ではなかったので、天井の低さなどは気になったが、2階部分は視線を遮るものがなく、豊かな空間である。60年代ホールには、大分ゆかりの作家の作品や、篠原有司男のバイク彫刻が展示されていた。「零のゼロ」各参加者の作品は、具象、抽象、彫刻、写真、陶芸、インスタレーションと、形態、質、共に様々であったが、特定のイデオロギーに偏ることなく、個々の問題を個別に追求しようとしている点が小気味好く、また勉強になった。展覧会は、平日・休日共に観客の入りも多く、大分の人々の美術に対する関心の高さに驚いた。同じ国内でも場所が異なれば、美術に対する考え方、歴史観にも微妙に異なる濃度の違いがあり、普段自分が思考していることがいかにローカルであるか、また共通点を持つのはどの部分なのかということを感じられるのが楽しかった。
大分は、海の幸、山の幸に恵まれており、すぐに美味しいものに行き当たるので、東京にいて美味しいものを探すのが馬鹿らしくなるような感覚だった。強く記憶に残っているのは、関鯖・関鰺などの刺身や鳥肉料理である。鳥の消費量が日本一という話も聞いた。チキン南蛮や焼酎も特筆しておくべきだろう。焼酎は主に宮崎産の黒霧島を飲んだが、九州ではウイスキーなど必要無いと思った。最終日に搬出を終えて、翌日早めにバスで大分を発ち、福岡に入る。福岡アジア美術館で「インドの現代絵画」を観た。グローバル化する美術の言説に登録されるために、手っ取り早く政治的問題の絵解きを行なったものや、ホックニーなど西欧の既存のスタイルによって、インドの現実を描くというようなものが多く、作品としてはあまり面白くなかったが、日本人が自身の鏡として、反省を込めて、教育的に観るには良い企画ではないかと思った。自身の姿は、環境に埋没していては見えず、異なる場所に置かれた時、はじめて異質なものとして眺め得るからである。また、この展覧会ではインドを中心とするアジア美術の近代化の流れも通覧することができる。これを見ると、他のアジア諸国でも日本と同じように、西洋的な写実や遠近法の導入から、印象派を経て、現代美術のスタイルとしての受容に至るという過程が繰り返されており、「日本近代美術」が決して特権的なものではないことが理解できる。美術館を出て、Le coin de Realiteというギャラリーに行くと、「The Book Covers」という展覧会で一緒だった寺本一川さんが書の展示をしておられ、奇遇な出会いとなった。その後、いくつかギャラリーを見て回り、たまたま通りかかった骨董屋で根付を購入し、夜の便で帰路についた。