柳健司展 秋山画廊

千駄ヶ谷を歩いていると、古い民芸店を見つけた。中に入ると、現代の物で手頃な値段ながら、健康な用の美に貫かれた品が多かった。窯元が多治見にあるという陶器の小皿を一枚買った。

秋山画廊で、柳健司展を見る。大胆な筆の筆触を活かし、白と黒だけで描かれた大きめのドローイング、小さな楽譜に鉛筆で鋭い線が引かれたもの、灰色に塗られた巨大な管楽器のような形態の奥に、モニターが設置された作品の三点で構成された展示。モニターには、ぼやけた風景や人間の眼が写し出されており、作品の中からは野鳥のさえずりが聞こえて来る。三点それぞれが、異なる手法で作られているが、鳥のさえずりという具体的な感覚がトリガーとなって、それぞれの抽象的な表現がインスタレーションとして統合されるという仕掛けになっている。音のような不定形な要素から、そのものがもつ特徴を抽出してくるという意味で、抽象絵画が構成されるための条件という問題系と共振する部分があるように思われた。

と、ここまで書いて、ティエリー・ド・デューヴの「レディ・メイドと抽象」という文章の中に、『出来合いの便器は出来合いの画布よりも、さらに一層、純然たる「絵画」であり、デュシャンはマレーヴィッチよりもはるかに画家であるということになってしまうような逆説。極限すれば、絵画のあらゆる外見、および慣例を、もっとも過激に放棄したものだけが、絵画という名に値するものになってしまうだろう。』という問題提起的な発言があったことを思い出す。

作品にオブジェのような手段を用いる時思わされるのは、デュシャンが用いた一連の所作が、いかに巧妙に呪縛として仕掛けられているかということだ。ド・デューブはグリーンバーグが「絵画の特殊性の存在論的な定義」に固執したことで、レディ・メイドに対する盲目性に陥ったことを批判しているが、現在においても絵画的な手法が、例えキリコのようなアイロニーとしてであれ、「平面」という批評性を欠いた言葉による居直りとしてであれ、アクチュアルな手段として認識されていることは、ド・デューブが批判した意味でのグリーンバーグ主義が形を変えながら生き延びているということを意味しているのではないだろうか。そのようなパラダイムに立てば、還元主義である(とされている)グリーンバーグと、作品の内的連関性を重んじるフリードとの対立というストーリー自体が小さな誤差であるかのようにも感じられて来るのである。「絵画」はいかにして可能なのか。