中西夏之新作展(承前)

 昨日の記事を書いた後も、自分の中でしばらく中西夏之についての考えが続いていた。その中で、自分は11年前の鮮烈な記憶に囚われているせいで、その間に中西夏之の内で静かに進行していたある可能性について、十分に把握できていなかったのではないかという反省が起こってきた。それは、ボナール的転回とでも呼ぶべきものだ。新作の中には、確かに以前の作品にあったような、支持体に反発し、そこを蹴り返すことで逆説的に絵画を成立させるようなタッチの独立性は消えていたかもしれないが、その代わりに芽生えていたのは、ボナール的なタッチの並列性である。ボナールの作品においては、ひとつひとつのタッチや色彩がその組織体から突出することなく(個々の色彩はその輝きを減じることなく)、横へ横へと連なってゆくのを見ることができる。観る者は、その色彩の織物を眺めるうちに、突然ある色彩に眼を奪われ、視覚の中をその色彩に支配されるのである。白いタッチで覆われた中西の作品を眺めているうちに、ふと紫の色彩が染み出すように、こちら側の視覚に入り込むという経験もそのことと同様の事態であると言えるだろう*1。それは画面が装飾的であることの効用であり、ボナールが制作時に画面の範囲をあらかじめ決定しなかったことからも帰結できるように、一点主義ではない連作の豊かな拡張性をもたらす可能性を含んでいるのかもしれない。

*1:中西夏之の作品に見られるこのような色彩の働きを見て、ムンクが眼病に罹った時に、自身の眼の中に映った奇妙な色斑の様子を描いた作品を思い出した。