山の桜・趣味と感情の問題

 神奈川県の伊勢原にある大山に登山し、大山阿夫利神社に参拝する。下界の桜はすでに散り始めているが、山の桜は今が丁度満開で、瑕瑾の無い桜の花びらが威勢を誇っている。



 昨日の記事をアセテートさんに紹介して頂いたことに触発されたので、『回想のヴィトゲンシュタイン』についてもう一言。

 この映画には、確かに趣味の良さや編集の巧みさによって感情の喚起を強く促すという部分はあるかもしれないが、それは作品を規定している構造に比べれば二次的な要素に過ぎない。むしろそこで問われるべきなのは、なぜカットやシークエンスの連結が構造の外部にあるはずの趣味や感情といったようなものを引き寄せるのかという問題だろう。

13 「言語に含まれる一つ一つの語は何かを表記している」とわれわれが言うとき、このことによって、さしあたりまったく何ごとも言われていないのである。もしわれわれが、どのような区別をしたいのかを、厳密に明らかにしているのでないならば。 『哲学探究』藤本隆志訳

 趣味や感情を喚起するはずの一つ一つの記号や音楽は、単独で現れるだけでは未だ何ごとをも構成しえない。分節されたそれらの要素が、ある仕方によって繋ぎ合わされ、それによって観る者の記憶が動員された結果、はじめて感情の動きが生まれる可能性が開ける。実際には、語と語が繋ぎあわされる「場」を確定することが出来たとしても、そこから主体に立ち現れる趣味や感情の起源を認識することは困難だろう。いったいそこでは何が起こっているのか。それは、直接的に触れることは出来ないが、ある行為の結果として副次的に産出される心的な現象である*1。ゆえに映画における趣味や感情の問題を問う時には、それらをあらかじめ前提として語ることは出来ないのである。前提とした途端に、それらを構成する原因のひとつであるはずの、語の分離と連結という問題が消え去ってしまうのと同時に、議論の深化も望めなくなってしまう。

*1: 表情と感情が恣意的に結びついてしまう問題も同じ射程圏において論じることができる