文脈の摩擦が示すこと

 猿が選挙演説をするという設定で制作されたイー・モバイルのテレビCMが、黒人の大統領候補であるオバマ氏の演説風景を、人種差別的なパロディに仕立て上げたものだという解釈による批判が、アフリカ系アメリカ人を中心に噴出しているとCNNが報じている。

http://jp.youtube.com/watch?v=MCmiKJLx5IY

http://sankei.jp.msn.com/world/america/080703/amr0807030939002-n1.htm

 今回の事件は、どのような映像も、インターネットによって即座に世界中に流通してしまうという現在の環境が、これまでのように、日本人がドメスティックな文脈のみに基づいて広告を制作することを不可能にしたということを、実際の摩擦によって提示して見せたという意味で興味深い*1

 このことは、細かな社会的な歪みを見つけることによって、自らの芸術的価値を担保してきたコンセプチュアルな現代美術的手法の有効性が失効しつつあることをも同時に示している。インターネットという存在によって可能となった、24時間体制で監視され、常に発現する機会を伺う社会的正義という理念が、あらゆる歪みを指摘し続けることによって、社会派芸術から制作のための動機を収奪してゆくからである。このような世界においては、企業CMも、コンセプチュアルアートも、ドキュメンタリーフィルムも等価な存在として併置されざるを得ない。それは、資本主義が陥る価値付けに際しての誤謬のように、美術館(ホワイトキューブ)の中に置くことによって作品の価値を示そうとする、パワーゲームとしての現代美術というジャンルの特異性を想起させる。アニメのパロディも、単なる物体でさえも、美術館に置かれさえすれば芸術であるという自家中毒的な論理が、借金漬けとなった国家財政のように自壊しつつあるということを、イー・モバイルのCMは私たちに教えてくれる。

*1:問題のCMが当初日本に滞在する外国人によって発見されたとしても、昔と違い映像をインターネットを通じてただちに世界中で共有できるという意味は大きい。