画廊巡り
南天子画廊でコレクション展。山田正亮のボーダーをモチーフにした絵が掛かっていた。少し厚みを帯びた、渋めで様々な色彩を持つ絵具が、筆によって真横に引かれている。キャンバスは絵具で隙間無く充填されているため空間に遊びは無く、視線は上下に動くことを強いられているようだ。しばらく、複数の色彩の間を行ったり来たりしている内に、同じ色彩で似たような太さを持つ線同士を、眼がグループとして認識し、視線の動き方に影響を与えるようになってゆく。他には作者不明だが、単純な家の形をブロンズで作った小さな彫刻が眼に止まった。
ギャラリー小柳では、杉本博司の展示。「本歌取り」と称して、現代建築の一部分が写真によって切り取られている。しかし、そもそも写真自体に被写体に対するオマージュという観点が組み込まれているのであり、敢えてそれを作品のテーマに据える狙いが見えづらいように思われた。そのような「言い訳(コンセプト)」の後に裸で残されたのは、写真家が得意とする、ボカシや焼きといった技術の残滓だった。
なびす画廊で、黒川弘毅の彫刻を観る。一見蝋や粘土のような可塑性のあるものを削ったかのようにも見える軽やかな造形だが、無垢の金属から削り出したものである。形が直接に削り出されることによる効果なのか、彫刻が空間を発生させるというよりも、閉じられた空間の中で、彫られた形とブランクになった隙間とが絡み合っているように感じられる。それは、パースペクティブを開くというような意味での視覚性ではなく、暗闇の中ではじめて触知されるような意味での触覚性が持つような体験であり、作品は直接的な経験を観る者に希求しているように思われる。絵画であれば、「視ることのアレゴリー」に出品されていた頃の小林正人の作品がそれに対応するだろう。そこでは、イリュージョンの発生と消失との閾が模索されながらも、最終的には画布という物質性の現前が意識されており、純粋な視覚による運動は拒絶され、モノの側に引き寄せられるような形での知覚が要請される。物質性が持つ基礎的な条件を模索する制作の在り方には共感しつつも、しかしこのように直接性を希求する作品の在り方には、同時に「誕生」や「生成」や「無垢」と言った観念性が附随しがちであることに対する疑念も感じられた。