武満徹 Visions in Time展

武満徹の楽譜などの資料と共に、生前武満と親交があったり、武満が特に関心を示した芸術家の作品を、同時に展示した多面的な展覧会。北代省三山口勝弘瀧口修造など、実験工房で一緒だった面々の作品や、ジャスパー・ジョーンズ、サム・フランシス、宇佐美圭司堂本尚郎加納光於大竹伸朗など現代美術作家や、クレー、ミロ、ルドン、村上華岳など世代の異なる作家の作品までが並んでいる。並べられた個々の作品は、武満との関連性という興味を括弧でくくれば、それほど面白いというわけでもない。正直、集められた作品の質に疑問を感じるものも多かった。それでも、クレーやルドン、華岳の作品は、このような資料的な展示の中でも一定の質を保っており、さすがと思わされた。中でも、武満との関連で言えば、ルドンの「眼を閉じて」*1が特筆に値するだろう。この作品は、全体を淡いトーンが支配する中、画面の下三分の一が水平線によって仕切られており、その上に、眼を閉じた人物の首が載せられている。構図を見ると、まるで、海の上に巨大な人間の首が載っているかのように見え、小さい作品ながら、特異なスケール感を感じる不思議な絵である。タイトルが音楽を想起させるが、絵自体は、時間が静止したように静寂が支配している。耳を澄ませてはみるが、何も音は聞こえない。そんな風情なのである。普段それほど意識はしないものだが、絵画というのは、その多くがなんらかの形で潜在的に聴覚に刺激を与えるものである。自然に近い音を感じたり、これから何かが始まりそうな音であったり、リズムを伴った音であったり、人工的で抽象的な音であったりと、その形態は作品によって様々である。どれほど、静寂さを意識しても、無音の絵画というものはなかなか出来るものではない。また、音楽の領域においても、静寂さという概念は異質な価値を持ち得るだろう。西洋の音楽が、高らかに音を響かせ、そうした音の連なりでもって空間を組織してゆくのに対して、武満徹の音楽は、静寂さが主である。まずもって音が存在するのではなく、静寂さという余白の中から副次的に音が浮かび上がってくるような感じがある。そのため、武満の作曲においては、第一に無音の空間が用意されていなければならないと想像できる。ルドンの「眼を閉じて」は、武満にとって、作曲前のタブラ・ラサを意味していたのではないか。また、この絵は、多くの他の絵に混じって、作曲家の精神のごく近傍に位置した特別な絵ではなかったか。会場の中で、そんなことをずっと考えていた。

東京オペラシティ・アートギャラリー

*1:この絵の前には、音楽プレーヤーが設置されており、「閉じた眼 - 瀧口修造の追憶に」という、武満がルドンの絵にインスパイアされて作曲した曲を、絵を見ながら聴くことができる。