『綴り字のシーズン』

カバラを信奉する大学教授の父(リチャード・ギア)とユダヤ教の薫陶を受けて育つ男女の兄弟。科学者の妻は結婚する時にカトリックからユダヤ教へと改宗している。父は世界が誕生したと同時に砕け散ってしまった聖杯(世界)が正義の力によって再び組み直されるとするユダヤ教の伝説、ティクン・オラムを理念として生きている*1。神は言葉に宿るとする信念から娘にユダヤ的で特異な言語教育を施し、それが娘のスペリングコンテスト全米大会出場へと結実してゆく。だが、娘が地区大会、州大会へと順調に勝ち進む中、父の独善的な生き方に反発を覚える妻と息子には不穏な影が付きはじめる。妻は夫に内緒で借りたガレージ内に盗んだ宝飾品で奇妙なシャンデリアを構築し、息子は美しい同世代の女性と知り合い、彼女が信奉する東洋の異教*2に惹かれてゆく。父が思想や生活など、全てにおいて完璧さを求める程、家族の懸隔が深くなってゆくなかで、娘は全米大会に進み、決勝まで勝ち進んで行く。最後の出題は「折り紙」(O-R-I-G-A-M-I)。大会前夜に父と共に復習した問題である。父は娘の優勝を確信したが、娘は最後の綴りをわざと間違えて準優勝に甘んじる。父は挫折に苦しみ、共に観戦していた息子と抱き合う。破れても笑顔を見せる娘とそれを精神病院のテレビで見つめる母親。父のこだわる想像上の理念が崩壊した時、(現実の)家族の絆が回復される。この映画の背景にはテロで傷付いたアメリカ人の素直な反省にも似た心情が流れている。父の排他的理念を「国家」と言い換えることも出来るだろう。思想という自らを想像的に(保護)統一する究極の位置において諦観を受け入れることが、引き換えに等身大の幸福な家族像を維持する道に繋がるとする、これは多分にイデオロギッシュな映画である。平和への心情的な連帯を広く国民に訴えるという意味では、幾らかの現実的な効果はあるのかもしれないが、「作品」の流れとしてはいささか単純に過ぎるのではないか。この映画に現実の政治の圧倒的な難しさを包接する程の物語性の幅は感じられなかった。

『綴り字のシーズン』

*1:「我々人間の役割は、砕け散った世界の断片を拾い集めることである」このセリフを見ると、あらかじめ「唯一なるもの」が設定された上で、主人公が不完全な世界をロールプレイしてゆくという意味で、村上春樹的世界観と似たものを感じる。

*2:ヒンドゥー教