パウル・クレー展  線と色彩

今年の2月に大丸ミュージアム・東京で開かれたパウル・クレー展を見に行った。昨年ベルン市の郊外に、レンゾ・ピアノ設計によるパウル・クレーセンターが建築され、その開館準備に伴って、所蔵作品の一部が貸与されて開催の運びとなった展示である。レンゾ・ピアノはセンターの建設に際して、クレーの作品から構造上のアイデアを引用し、大胆な波形の屋根が特徴的な建築を作り上げた*1。私が会場で展示されていたクレーの作品を通覧した後に最も強く印象に残ったのも、クレー作品の構造に関してである。クレーと言えば、実験的とでも言える様々な手法や、キャラクター化された絵柄も特徴の内であるが、どんなに遊び心の感じられる作品に於いても、それらの多くで厳格なまでに幾何学的な構造が決定されている。画面上に表れる多様なマチエールも最終的には下層に置かれた構造を引き立てるために奉仕しているとさえ思えて来る程だ。何故なら、クレーのマチエールの扱いには両極に分かれた二つの方法が存在しているからだ。一つは、荒い麻布に油絵や糊絵具で描くような足し算の技法であり、もう一つは麻のキャンバスを用いながらも水彩などを用いて極力絵肌を感じさせないように配慮された引き算の技法である。足し算の技法に於いても、また引き算の技法に於いても絵肌の作り方は繊細さを極めており、見る者がその触覚においてそれらを感知し、魅了された時点で、次にはマチエールを通しては知覚されないもの、すなわち構造が反対側から浮かび上がってくる仕掛けなのである*2。今度はマチエールとは逆にクレーの線について見てみたい。クレーの線はどれも非常に柔らかい。ピカソが描く意志的な強い線に対してクレーの線は、まるで自ら方向を定める意志が存在しないかのように空間を漂っている。そうしたクレーの線のあり方は、デュシャンの「三つの停止原器」と非常に似通っている。「三つの停止原器」を制作するにあたってデュシャンは、三本の糸をそれぞれ1メートルの高さから自然に落下させ、着地した時点で形成された曲線をニスによってそのままの形で固定させ、その曲線を基準に3本の定規を制作している。通常のメートル原器が正確さの病に冒される程の精度を持って、不可能な「普遍」を探究しているのに対して*3デュシャンの作成した「装置」は「特殊」な偶然を言葉によって概念化(停止)していると言えるだろう。クレーの絵画における、マチエールとマチエールの間に存在している「線」が置かれる場所も、通常の空間概念では捉えられない次元を表現しているという点で、デュシャンの装置と同様の場所を希求しているように見える。クレーの作品が極めて興味深いのは、「構造」を作品化する上で、通常の方法を取らず、上記のような複雑なプロセスを踏むことで静的な空間を画面の内側に無限に織り込んでいるところにあるように思われる*4。浮かび上がる面と面との間の境界も、画面の主体となるべく引かれた線も、極力自己の主張が抑制され、「否定的」な力でもって誕生して来るのである*5

*1:ポンピドゥー・センターのコンペティションに於いて、むき出しの構造で構成されたレンゾ・ピアノ案を採用した審査員は、コルビュジェ建築の構造を担当したこともある、ジャン・プルーヴェであった。

*2:繊細すぎるマチエールの扱いが逆説的に構造に対して見る者の注意を引っ張って行く。

*3:現在1メートルは、1秒の299792458分の1時間に光が真空中を伝わる距離として定義されている。

*4:空間が内側に向って展開してゆくクレーの作品は展示する場所を選ばない。ベルンのパウル・クレーセンター内の展示空間が複数の可動壁で構成されているのも、クレー作品のこのような性格によるものと思われる。まるで外部空間を占拠するかのような「現代美術」を見慣れた眼には、ひょっとしたらクレーの作品は物足りなく感じられるのかもしれない。これは私が今回のクレー展に関して拝聞したいくつかの否定的な見解に対する個人的な感想である。

*5:ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」の華々しさと対比的である。