「零のゼロ2008」展覧会参加メモ

 大分市のアートプラザで開催された、「零のゼロ2008」展に参加してきた。昨年に続いて二度目となる。今回は、前回に比べて出品者が増えたことで作品の出品点数も130点あまりと膨らみ、会場内の交通整理が最大の課題となった。搬入時においては、作品とその位置関係とのバランスや出品者の希望を勘案しながら、可動壁によって空間が徐々に組み立てられ、全ての作品が納まるところに納まるまで展示のための検討が続けられた。出品された作品は、絵画、彫刻、インスタレーションと様々で、テーマなどに即した統一性は皆無であった。しかし、西洋美術とそこから派生する文脈が唯一の価値規範であることが過去のものとなった現在、作家は再び自ら課題を設定し、問題を探究する自由を与えられている。実際、それぞれの作品が持つ傾向の違いをとやかく言う者はおらず、作品評価の基準は課題設定の有効性と、作品の制作がどの程度、設定された課題に対して応えているかという部分に絞られていたように思う。17日に開かれたシンポジウムにおいても、私は昨年のカタログに掲載された文章をもとにして、認識の主体間における共約不可能性と制作との関係について話した。シンポジウムは、大分市美術館の菅章氏のナビゲートによって、大分県の美術界の大まかな見取り図と、「零のゼロ」が持つ特異性についての話からはじまり、その後各パネリストに「零のゼロ」に出品する意味、自らの作品と社会との関わりなどについて話が振られ、進行していった。

 他の出品者の作品で、気になったものを挙げてみる。廣岡茂樹氏は、200号のキャンバスに大分の特産品である一文人形(首人形)を描いていた。背景は海岸で、人形は藁に刺さっており、藁の影は太陽光線が来るのとは逆方向へ落ちている。実物の一文人形は、ごく小さなものなのだが、巨大なキャンバスに大きく描かれていることで、物が持っている固有のスケール感が撹乱されている。

 キリスト教をテーマにした三宮一将氏の絵画は、一見「最後の晩餐」の場面を描いているように見えるが、実はユダが存在しないなど、キリスト教的世界観の中に奇妙なズレを挟みこんでいる。昨年の出品作である、「ちょっとした奇跡の日」と共に、『聖書』が描く世界のなかに垣間見える軽さというものをその卓見によって描いている。また、絵の前に展示された箱状の彫刻は、十字架状に空けられた穴から日光が差し込み、時間の進展によって十字架状の光が箱の中を移動する仕掛けとなっている。

 山本豊子氏のインスタレーションは、バスタブに奇妙な形の脚が付けられたオブジェと、牧場で撮影された牛の映像で構成されていた。現実のエピソードに基づいて、架空の物語が作られ、過剰な物語性と映像によって制度としての美術を解体してゆくことが目指されている。映像は中央で裁断された像が鏡のように逆側へ反転されており、牛が中央の分岐点へ接すると、そこから牛の対称形が画面の反対側へ繋がって延びる。牛が中央の分岐点の外へ完全に出てしまうと、反対側の牛も逆方向から同時に分岐点の外へ出て、牛が画面の中央で完全に消失してしまう。

 古谷利裕氏は、ジェッソで試みられていた「plants」シリーズと、それを油彩で展開した作品を出品していた。古谷氏のお話によれば、画材を油彩に変えたことで、描画のプロセスが非常に複雑化したとのことである。実際、二点出品された油彩のうちの一点は、描画のスピードが極力遅くなり、筆触が以前に増して構築的となっているように見えた。


 展示会場横の60年代ホールでは、風倉匠を中心としたネオ・ダダイズム・オルガナイザーズの作品を集めた展示を行っていた。風倉のほか、工藤哲巳や三木富雄、田中信太郎などの作品を見ることができた。中でも赤瀬川原平の「米とアルミ」という、写真を元に印刷した作品が面白かった。印刷に使われている写真は、脱穀された米の中に一円玉が混ぜられているだけなのだが、主食である米の中に一円玉が混ぜられていることで、不可避的にアルミの食感のようなものが観る者の中で意識され、貨幣というものが持つ異物性が強調される仕掛けとなっていた。

 磯崎新が設計した会場のアートプラザは、外から見たりホールの中にいる時には、コンクリートの物質性が強調され、そこに60年代的で前衛的な意匠が絡みついただけの建築に見えるのだが、今回職員の本田さんの案内で空中にある遊歩廊を歩いたことで、建築への認識が一変した。遊歩廊から建築を眺めることで、空間が重層的に感じられるのが不思議だった。三階の展示室では、磯崎新の住宅建築にスポットを当てた展示が行われていた。全ての住宅が正方形と円形(ヴォールト)によって組み立てられている。展示を見ていると、円形は胎内回帰を意味するとの解説があった。「孵化過程」もそうだが、手法をはずして磯崎建築をイメージの観点から見ると、意外にもSF的想像力に強く支配されているように感じられ、おかしかった。


 8月14日付の大分合同新聞紙上に、菅章氏による「零のゼロ2008」展の展評が掲載された。