府中周辺

 府中市美術館で「山水に遊ぶ−江戸絵画の風景250年」展。佐竹曙山「湖山風景図」、葛飾北斎「不二図」 、題名を失念したが谷文晁の広大な山脈を借景とした、庭を描写した山水など、小品に優れたものが多かった。絵は全身を使って観るものだが、ここでは眼が身体の全的な動作を代替している。文晁の複雑な画面の間を縫うのに、また曙山や北斎の西洋的な遠近画法との対決から生まれたイリュージョンを含みこむ画面に焦点を合わせるのに、眼球は無理の無い動きを示し、運動というよりもむしろ画面上に安らうかのようだ。

 大國魂神社へ参拝に行くと、狛犬が多いことに気づかされる。新しいものは面白くない。良かったのはいずれも天保時代のもので、一対は背中や足元に子供を抱いた非常に愛らしいもの、もう一対は大きなもので、目深な頭の毛や背中にかけての渦巻き文様が特徴的である。こちらは全体に苔むしている。狛犬と言えば、そのうちに小松寅吉・小林和平師弟の彫った狛犬を巡ってみたい。http://komainu.net/(「神の鑿──寅吉・和平の世界」参照)

 仙川へ出て、東京アートミュージアムで「自然哲学としての芸術原理」展の松浦寿夫の回を観る。年初になびす画廊に展示されていた大きな作品は、どこにも定位しない筆裁きと、どこか粘りのある絵具との絡み合いが面白かったのだが、今回展示されていたものの多くは、ルーティン化された作業が全面化されたタイプのもので、残念だった。しかし、アウラの喪失を積極的に引き受け、無限定な死の形式としての平面性へと一体化してゆくウォーホルやリヒターが、意図的に死と戯れてみせる気負いを感じさせるのに対して、一見普通に描きながら、作家性の零度とでも言いうる位置へと滑るように到達してしまう松浦氏は不思議な存在である。