熊谷守一展 埼玉県立近代美術館

 美術学校時代の初期作品から晩年の日本画に至るまでの作品群を網羅した、質・量ともに充実した展覧会だった。確かなデッサンに裏付けられた初期の人物画からは、対象に向かう優れた認識能力が伺える。この時期の作品には、色彩は殆んど用いられておらず、画家の目的は対象が持つ形態の把握へと集中しているように見える。形態の把握が目指されているにもかかわらず、絵画の舞台装置が暗い室内に設定されていたり、人物像を描きづらい正面から捉えようとしている点などは、ジャコメッティーに似て強迫的でさえある。

 学校を終え、樺太調査隊に参加した後、母の危篤をきっかけに故郷に戻り、熊谷は作品をしばらく描かなかった。その時期と、その後の表現主義的な時代とを分かつのは、対象と画面との一致による認識の直接性を断念するという意識の転換である。熊谷が描く人物の形態は歪み、裸体には赤や青や緑といった強い色彩が施されることとなる。対象が把握されつつも、画面上においては自律した色彩と形態の運動が乱舞するという一見矛盾した様態の中で、画家の方法は徐々に確立されてゆく。伸びきったゴムのように、描くことの自由さが十分に試された後、徐々に絵画における秩序が探究されはじめる。それは、異なる制作原理としての幾何学の導入という形で、対象と制作の絡み合いながらの分離という、矛盾した事態を止揚するように突然に始められた。幾何学の導入によって、描かれる対象には輪郭線が導かれる。初期の写実的な作品から、中期の表現主義的な作品に至るまで、画家の胸中には、常に対象に輪郭線が存在することへの疑いが去来していたと思われるが、表現主義的な探究を経た画家は、対象に輪郭線が無いものとして作品を制作することができるのならば、同時に輪郭線があるものとして制作することもできるのだという、認識における飛躍を達成してしまう。それは、時計の発明と同時に時間が発見されることに似て、認識が持つ基礎的な条件を指し示している。ドゥルーズは、『カントの批判哲学』の中で次のように書いている。

 一つの認識を形づくるには、一個の表象だけでは十分ではない。何かを認識するためには、われわれが表象を有しているのみならず、われわれがそこから出て「それとは別の表象を、それに結びつけられたものとして再認」しなければならない。認識とは、ゆえに、諸表象の総合である。「われわれは、Aという概念の外に、この概念にとって外的ではあるけれども、そこに結びつけねばならないとわれわれが考えるBという述語を見出す」。われわれは、ある表象の対象について、その表象には含まれていない何かを肯定するのである。(國分功一郎訳)

 敷衍して言えば、熊谷が有している表象とは、日中庭の中で観察された草花や昆虫の姿であり、そこに結びつけられる別の表象とは、認識のために幾何学的な原理によって把握されたもののことである。

 さらに熊谷の面白い点は、カントがコペルニクス的転回という形で行った、運行する天体を関係において捉え、観察者自身をも、その関係の中の独立的で可動的な一項として策定した上で、主体と客体との間に敷かれていた、固定された支配-被支配という構図を解き放ったことと同様に、観察者である自らが、庭という自然を外側から構築し直し、小さな全体として独立して把握された庭=自然の中に籠って絵を描き続けたことである。そして、西洋の近代絵画というパラダイムの中の、日本近代絵画という水平的な枠組みの中で安住していた、他の多くの洋画家たちと熊谷とを明確に分離しているのは、自ら認識のための原理と、理念上自然から独立した観察者が活動するためのフィールドを再構築するという、垂直的な実践にこそあったのである。

 熊谷の絵が持っている奇妙なスケール感の欠如は、観察者を媒介として、絵と庭が等しく交換されるという、絵の中に「庭」があるのか、庭の中に「絵」があるのかわからない底抜けの状態によって引き起こされているものと思われる。