ブラウン・バニー

 ヴィンセント・ギャロは『ブラウン・バニー』によって新たなる映像の極北を走破してみせた。モーターサイクルの250CCフォーミュラ−レーサーが、忘れられない過去の愛を探しにアメリカ大陸横断の旅に出る。こうした絶望的な設定のなか、ギャロに許されているのは現実と追憶と幻想にまみれ、泣きながら走ることだけだ。どこまでもナルシスティックでエゴイスティックなギャロにとって、ストーリーなどは自身の「脆弱さの美学」に奉仕する奴隷でしかない。映画というメディアは、この極度にふてぶてしい精神によって執拗にねじ伏せられている。ポストプロダクションの段階で、光、色彩、コントラスト、構図から反射までが徹底的にコントロールされ、一つ一つの動作や小道具が作品世界の理想美を根気強く組み上げようとする時、映画のマニエリスムが強く胎動を始める。

 ハリウッドの撮影所システムが完全に解体し、一人のポップスターが巨大な予算を自身の私映画に投入することが可能となったことの代償に、映画の物語性自体も灰燼に帰した。構造などまるで感じられない平板な叙述法、安易なフェイドアウトの多用は、それだけで観客をしらけさせるのに十分だ。観客は薄められた麻薬を飲まされながら、透明な「流れ」のなかを、ただついて来いという手招きに応じているうちに、最大の見せ場である、即物的でありながらも激しく獣性を帯びたセックスシーンに不意を撃たれることとなるだろう。醒めきった意識のなかで、それでもスクリーンから眼を離せないという体験は、作品の良否を超えた、生理的な疼痛を見る者にもたらす。

 『ブラウン・バニー』は2003年カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、激しいバッシングと賞賛を一身に受けた。論争を巻き起こす問題作の久々の登場を素直に歓迎したい。今回のギャロへの批判は、17〜18世紀の新古典主義の台頭期にマニエリスムが著しく攻撃を受けた時の構造と同型である。テクノロジーの濫用や、文学的・象徴的な主題展開、極端な審美主義はいずれもマニエリスムの大きな特徴であり、映画が第2世紀を迎えた今、古典主義者の残党が最後の抵抗を始めているのだ。反対に、偽の文学的意匠を身にまとい、作品にスペクタクル性を巧妙に織り交ぜるギャロの擁護は、言葉の敗北を意味し、世界がまったく新しい共通の視覚統制の時代を生き始めていることを私達に告げている。こうした事態は、ウォルフガング・ティルマンスの写真やアルジャジーラが配給するウサマ・ビンラディンの映像と同時に考えられねばならない。この、言葉とイメージの相克が生み出す一連の事件を日本人はどのように受け止めるだろうか。

『ブラウン・バニー』ヴィンセント・ギャロ, 清野栄一(著)