恐い、怖い、こわい展

 ブリヂストン美術館が所蔵する作品の中から「恐怖」をテーマとする46点で構成される展覧会。全体を3つのパートに分け、美術における恐さという問題をあぶりだす。「死と悪魔」(1)では、人間が死という最も原初的な恐れの感情に、いかに対処して来たかが示される。ポール・ゴーガン『マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)』では死の淵に横たわる人間が悪魔を幻視する姿が描かれ、死に際して人間が向かい合う諦観のありかたを静かに語りかけて来る。パブロ・ピカソ『娘を襲うミノタウロス』は、自己の内部に渦巻く激しい愛欲の情を「奇怪なもの」(2)として余す所なく形象化する。「人間の中の恐ろしさ、不安」(3)のコーナーでは、ジャン・デュビュッフェの『暴動』が眼に止まる。未開民族の絵でさえも不純な形式として否定するデュビュッフェの絵は、無から無限に生み出されるイメージの恐さを純粋に伝えてくる。

 新たな視点を設定し、コレクションの死蔵を防ぐことは美術館にとっても鑑賞者にとっても良いことではあるのだが、今回の展示を見ると出品作が一美術館のコレクションだけで構成されていることの限界も感じた。展示品中美術館が熱心に蒐集した、ジョルジュ・ルオ−やピカソの作品が充実しているのに比べ、普段見る機会の少ないフェリシアン・ロップスやアルベルト・クリューガーらの作品が、例外なく一点のみにとどまっていることを見ても、テーマ性の高い展覧会にしてはキュレ−ションが特定の趣味に偏っているように思う。多くの美術館で次々と予算が削られる趨勢の中で、更なるコレクションの充実は望むべくもない。しかしそうであるからこそ、美術館同士の柔軟な連係を求めたい。今後は出来うる限りハード面を軽量化し、機能を情報処理に特化した、「コレクションを持たない美術館」という動きが一つの流れになるだろう。

 絵画の恐さとは何か。それは、絵の中に残虐な行為や恐ろしい顔つきをした悪魔が描かれていることではない。人間の無意識や不安がそれらしいモチーフで図示されていることでもない。その答えは、絵を描く者が自身の「内部」(身体性)を対象に仮託し、それを一枚の絵として意味付けながらも、見るもの(作者を含む)がその一枚の絵を一つの意味として統一的に把握できないことにある。一つの物質にすぎない絵画から、意味は常に逃げ去る。見る者はそこに意味を欠いた「内部」が裸で露出しているような錯覚を覚える。人は絵画自体が恐いのではなく、意味が欠ける契機こそが恐いのだ。描く者が強く絵画を意味付けようとすればするほど脱意味化のループは加速されるだろう。人間が意味に囚われている限り、「恐さ」の顕現は止まない。「見る」という行為はついに終わることはない。

『ノアノア』ポール・ゴーギャン(著)