雨、向田邦子、小津安二郎

 日暮れ時に夕立ちが降る。夕立ちは大粒の雨が身体に垂直に切り込んでくることが多く、確かな重みのある雨水の冷たさが印象的である。人工的にコントロールされない水というものの生々しさをふいに感じ、風や雨や寒さに対して常に無防備であった子供時代を思い出した。

 22:30からNHKの教育テレビで、太田光向田邦子のドラマ脚本を分析している。太田は、日本のドラマにおいて、ひとつのシークエンスによって複数の事件を生起させるのは向田邦子だけであると主張し、それを女性性に対する向田の鋭い観察力に帰した解説を行なう。日本の映画等において男が女を描く場合、女性の人格が捩じれた構造を示す場合が多いのに比べて、向田が描く女は、女の時間や感情の流れが女性性の内側で率直に把握されており、それがリアリティーを感じさせるのだろう。

 事件の複数性というと、どうしても小津安二郎を思い出す。小津の場合、映画という特性もあるのだろうが、向田のように複雑な感情をひとつのシークエンスに盛り込むという意識はあまり感じられないものの、強固なイメージとして整理されたひとつひとつのカットが、モンタージュによって組み合わされることにより、人物の感情の変化を間接的に際立たせるようにして伝えてくる。見る者は異なる映像のパターンを追ってゆく内に、知らぬ間に事件が複数に分裂してゆく様態を目の当たりにする。

 モンタージュという正格上、ドラマのシークエンスのような直接的な迫真性というものはないが、そのパラパラとした画面の移り変わりや繰り返しの妙に、素材感に対するフェティッシュな愛着のようなものさえ感じてしまう。映画が、スクリーンに一旦反射する光を見るという行為であることが光の素材感に対する意識を先鋭化させるという効果もあるのだろう。これはドラマのリアルさにはない、間接性の恩寵のようなものであり、ワンカットごとの記憶というものを見るものに強く印象づけ、想起する力が作品内部を自由に動き回ることを主体に許している。最近の映画が持つ画面展開の滑らかさに対して懸念を表明する所以である。

『私のこだわり人物伝』太田光(著)