diary

田幡浩一展(ギャラリー小柳) 青山大輔展(藍画廊) 市口清一展(ギャラリー現) 展示に足を運んで、昨年お亡くなりになったことを知った。遺作展だった。15日から目黒区美術館 区民ギャラリーでも展示が始まるようだ。早見尭氏がパンフレットに「ナチュ…

展示風景

近作(部分)

2月3日(木)の初日、18時よりささやかなものではありますが、オープニングを行います。

展覧会DM

展示風景とコメント

Gallery Face to Faceのホームページに、今年9月に行った展覧会の会場風景の一部と、ギャラリーからのコメントが掲載されています。 下記のURLからホームページにアクセスして頂き、下部にある「Overview」→「2010年企画展」→「21 上田和彦展」の順に…

返答

私の反論について、古谷利裕さんから返答があった。 http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20100917 議論が込み入ってきたので、別の機会に、別の形で返答を試みたいと思っている。 政治を自動的に運動する権力装置として捉えると、思考停止に陥らざるを得…

教育について

教育について語る者(もしくは教育者)の教育については、不問に付されることが多い。教育について語ることで、教育について語る資格を保持していると見做されるという、転倒した構造がそこにはある。美術に関して言うならば、教育について語る者も語らざる…

感想

ギャラリー・フェイス トゥ フェイスの展示について、本村誠さんが感想を書いてくださいました。 http://d.hatena.ne.jp/motomuramakoto/20100904

Gallery FACE TO FACEでの展示が、本日より最終週に入りました(9月26日まで)。よろしくお願い致します。 http://ftf2000.com/gallery/

セザンヌもマティスも、ただ好きな絵を描いていた訳ではない。マネやドガに比べれば、官展が持つ政治性から自由であったとは言えるかもしれないが、それでも、公的なものに反発するという政治性の中で仕事をしていたとは言える。そもそも、政治の本質は制作…

statementと行為との間にズレが発生するのは当然だ。制作は、未だ自らが何を行っているのかわからない中でなされるほかない。なされる前から結果がわかっているのなら、それは制作ではなく、実用的な製作にすぎない。言葉も行為も、主体の外側に投げ出される…

永瀬恭一さんが、「零のゼロ2010」について書いてくださいました。ありがとうございました。 http://d.hatena.ne.jp/eyck/20100809 作品は(外部によって)常に試されるべきである。完璧な展示空間は存在しない(ジャッドが設計した展示空間が、ジャッド…

三菱一号館美術館で「マネとモダン・パリ」展。 南天子画廊で伊部年彦展「ふり返るといる ふり返るといない」。 国内で実物を観る機会が少ないことや、マネ自身が、敢えて官展に留まり続けたことなどにも原因があるのかもしれないが、日本での印象派理解に欠…

客人来ル。

立葵が真白い花を付けている。明るい緑色の葉には、蟻が忙しそうに這い回り、花々には一匹の蜜蜂が順々に巡回している。まだ蕾が開きかけた花が多いせいか、蜜蜂は、なかなか花冠の中へと入ることが出来ずに、花先に微かに触れながら、糸で引かれるようにし…

ダリオ・ガンボーニ 内海聖史

東京大学駒場キャンパスにて、ダリオ・ガンボーニ氏の講演、「疑念と寓意-ルドンとゴーギャンに関する新視点-」を聴いた。「潜在的イメージ」という観点から、ルドンの絵画の中に埋め込まれている、別のイメージに焦点をあてる。ガンボーニ氏は、ルドンが描…

川沿いに咲く、真青な紫陽花