statementと行為との間にズレが発生するのは当然だ。制作は、未だ自らが何を行っているのかわからない中でなされるほかない。なされる前から結果がわかっているのなら、それは制作ではなく、実用的な製作にすぎない。言葉も行為も、主体の外側に投げ出されるようにして、それぞれが独立した秩序を(着地点において)組立てようとする。そうであるならば、言葉と行為(制作)とのズレをこそ、積極的に注視すべきではないか。言葉を制作から独立したものとして投げ出すことを恐れ、個的経験としての制作のみに沈潜することは、誠実に見えて、矮小(過保護)な主体の擁護にしかならない。作品も批評も、言葉と行為との闘争のさなかにおいて発生する。闘争(ズレの注視)を避け、両者を恣意的に分離、もしくは癒着させるところから退廃が始まる。