ダリオ・ガンボーニ 内海聖史


 東京大学駒場キャンパスにて、ダリオ・ガンボーニ氏の講演、「疑念と寓意-ルドンとゴーギャンに関する新視点-」を聴いた。「潜在的イメージ」という観点から、ルドンの絵画の中に埋め込まれている、別のイメージに焦点をあてる。ガンボーニ氏は、ルドンが描いたいくつもの作品を示し、それらの完成作が描かれる以前に、同一の支持体の中に描かれていた人体などの形象が、完成作の出発点として重要な位置を占めている点を明らかにしてゆく。画家は、完成作とは直接に関係の無いイメージに手を加え、全く新たなイメージを形作る。しかも、出発点となった元のイメージは、制作の過程において完全に消去されることなく、痕跡として残される。その隠された形象は、不注意な見物人(spectateur)には見ることは出来ず、注意深く見る人(regarder)の前にだけ開示される。ガンボーニ氏は、見る者の知識や精神状態に応じて、二重にも三重にも異なった様相を、作品において示すこと、それこそが芸術家の任務なのだと言う。

 同様の分析手法はゴーギャンの作品においても発揮される。そこでは、画面の装飾や髪型の中に潜む眼のイメージや、山へと形象化された人体、柵の装飾に隠された性器などの存在が示される。隠されたイメージの在り方は、ルドンとゴーギャンとの間では微妙に異なった様態を示している。ルドンにおいては、潜在的イメージと顕在的イメージが、シュルレアリスムにおける偶然性の手法が用いられたかのように、分かちがたく溶融し合っているのに対して、ゴーギャンにおいては、それらはネガとポジのようにして明確に言語化されている。ガンボーニ氏が見せる論証の手続きは明晰であるし、実際に絵画を制作している者の身体感覚からしても、非常に説得力のある話だった。しかし、その説得力のうちの多くの部分はまた、騙し絵的な知覚やゲシュタルト性に起因しているようにも思われ、絵画分析において、こうした手法を無批判的に展開してゆくことの危険性をも同時に感じさせられた。


 その後、スパイラルガーデンで、内海聖史展「色彩のこと」を観た。現代美術館での「屋上庭園」に出品されていた大作と、ギャラリーでの「十方視野」に展示されていた小品とで構成されている。大作の方は以前より小さく感じられ、反対に小品の方は以前よりも大きく感じられることがまずもって気になったのだが、内海さんとの話の中で、展示方法が変化することによって作品と眼との距離も変化し、ゆえに、作品の大きさに対する知覚が大きく変容していることが原因であるとわかった。以前水平に展示されていた大作は、今回楕円の軌道を描くように設置され、以前ランダムに展示されていた小品は、今回水平に並べられている。作品のエッジ部分に対する意識の強さと、並べられた作品同士が連結しやすい構造を持っていることが、観る者の知覚に与える負荷を大きくしており、展示される状況によって、時に、上記したような、ドラスティックな印象の変化を齎しているように見える。つまり、作品同士の関係が、可塑的なメディウムとして意識されている。

 内海さんとは、会うたびに、とても気持ちよく会話をすることができる。それはこの作家が、絵画に対する独特の理念を持つのと同時に、制作の実践よって培われた、プラグマティックな心性が、その人格の中に統合されているからだろう。

 制作において、方法や形式は勿論大切であるが、作品にはそのひと自身が色濃く現れる。敷衍すると、作品は独立した人格を持ち、一人歩きをはじめる、とできる。