セザンヌマティスも、ただ好きな絵を描いていた訳ではない。マネやドガに比べれば、官展が持つ政治性から自由であったとは言えるかもしれないが、それでも、公的なものに反発するという政治性の中で仕事をしていたとは言える。そもそも、政治の本質は制作内部の論理として機能する(世俗的な権力闘争などは政治の名に値しない)。線や色彩が、感覚の政治(政治的反動としてのreaction)から自由であったためしはない。

 フレームとは視覚における選択の論理であり、そこでは当然、見られるものと見られないものとの間で、絶えざる闘争が繰り広げられている。我々が、過去の美術作品を見て、ある部分を奇妙に感ずる時、見る主体は、画面に亀裂を与え、対象を変形させる力を感受しているのであり、そこでは感覚の政治性が、事件に対する反応として現れる。

 そのような特異点を、様々なる力の交錯の痕跡として見るのではなく、単に面白い現象として愛でるなら、時にそれは、最悪の「政治」として機能するのである。

 絵画における政治性を思考することが、なぜ「上を目指す野心的」な心性の表れとなるのかは全く理解することができないが、一見政治性に無頓着に見える態度こそが、裏側から見えざる権威として機能するであろうことは、これまでの「歴史」の反復を通して、容易に予測することができる。