色彩について

 少なくとも私にとっての色彩は、絵具が整然と並べられたパレットを一望の下に把握できるような位置から、厳格に統御できるものではない。勿論色彩の選択や筆触の置き方について、自身の意思が関与していることは確かであるが、制作者の意思は、常に色彩同士が持つ固有の論理との衝突を避けることができない。例えば、一旦赤の横に青が置かれれば、もはや可逆的な遡行は不可能となり、赤→青もしくは赤←青という運動から第三の色彩への繋がりが導かれるだろう。第三の色彩が置かれるとき、制作者が色彩の破綻を目論んだとしても、事態は変わらない。そこでは破調としての色彩さえもが布置を構成する可能性の一様態として計算され、直ちに破調という括弧入れを織り込みながら次なる色彩の選択が進行してゆくからである。まるで運命のようにして進展する色彩の運動と、制作者の意思は、絡まりながら分離をはじめ、一つの色彩の選択が、次に控える千もの色彩を可能性として含むようにさえなり、確かに色彩を選び、筆触を置いているのは他ならぬ自分であるという意識を持ちながらも、遂に置かれつつある全色彩の布置を明示的に把握することが出来ぬままに、私は色彩から離れつつ色彩を置くという奇妙な状態へと入ってゆくのである。