「組立」永瀬恭一×古谷利裕展 masuii R.D.R gallery

 通常のギャラリーでの展示に加え、専用ブログにおける企画段階からのドキュメントや、小説家・磯崎憲一郎との対談企画、展覧会出品者を含む4人の作家によって執筆された小論を纏めたフリーペーパーを会場で配布するなど、多面的に構成されたユニークな二人展である。

 古谷利裕は、A-thingsでの個展で発表されていた「plants」と題されたシリーズと、これまで紙に描かれていたドローイングをキャンバス上に展開したシリーズを展示。「plants」は、限られた色調に調整されたジェッソによるペインティングだが、筆ではなく料理用のヘラのようなものでジェッソが置かれている。描画のプロセスが、時間軸に沿って追体験できる筆によるペイントとは異なり、ヘラによる制作では、描画材がロウキャンバスにいきなりへばりついたような表情を見せており*1、描かれたプロセスを読み取りづらい。そのため、余白が多く、筆触の表情も限られた手数に留まるシンプルな作りでありながら、視線が画面上を複雑に辿ることが可能となる。しかし、比較的新しい傾向と思われる小さめのキャンバスでは、ジェッソや筆触が流動性を増しており、比較的スタティックであった筆触の布置が動的な展開を見せつつある。ドローイングからの影響や、フリーペーパー上で論じているフランケンサーラーとの親和性を思わせる。

 永瀬恭一は、オランジュリーにあるモネの睡蓮の連作を思わせる横長のフォーマットのキャンバスを床に直に置き、その周囲に草花を色鉛筆で描いたドローイングを並べた展示。作品が「黒板」と題されていることからもわかるように、支持体を物質という側面と、イメージが描かれる場という二面に分離させつつ、画面上で再統合させようとする試みと読める。画面上に置かれた油絵具や描かれたイメージも、金属製のヘラのようなもので荒々しく引掻かれており、キャンバス上に描かれつつあるものでさえも、素直にイメージとして認識されることに対する抵抗として組織されている。これは、永瀬氏によってフリーペーパーにも書かれているように、リチャード・セラの金属板が壁面に背をつけて自立している不可解な彫刻作品からのリファレンスとして発想されたものだが、そうであれば、私は未見であるが、フリーペーパー上に記述のある、「大小さまざまなキャンバス絵画を、壁の一番下、つまり木枠の下辺がぎりぎり床に接する高さで展示」された「うきぐも」展に出品された作品の方が、コンセプトに対してしっくりと来るように思われる。つまり、マテリアルとイメージとの共存という問題設定においては、キャンバス上に限られた筆触があり、床に接する高さの壁面にかろうじて展示されているという状態が、そのコンセプトに沿うぎりぎりの形であって、今回出品された作品のように画面の表情が豊かで、草花などの再現的な表象さえもが姿を現し、尚且つ露骨に床置きされた状態というのは、そのコンセプトに対していささか饒舌すぎるような感想を持った。恐らく永瀬氏の発想は、当初とっかかりとなっていた、リチャード・セラの作品から受けた問題性を越えはじめているのであり、そうした意味で今後の展開に期待したいと思う。

*1:古谷氏の作品に見られる筆触が画面上にいきなり在るという感じは、小林正人の「キャンバスが張られてから描かれたのでは遅い」という発言を思い出させる。