屋上庭園 東京都現代美術館

 庭をテーマとした展覧会。庭は人為的に囲いをつけられた生成する自然であり、アナーキーに成長し続けようとする自然の諸力に対して、人間が理をもって裁断を行う場である。同様に、作品を生み出すためには力の発現が肯定されるのと同時に、純粋な力を制作という理法に従って統御する必要がある。出品されていた作品の多くは、なぜか直接的に植物をモチーフとしたものが多かったが、タイトルの一部として用いられている「庭」という言葉は、広く芸術の隠喩として用いられているのだろう。

 細密描写で知られる河野通勢は、ハリストス正教会の信徒であったことも影響してか、『叢』と題された鉛筆デッサンなどを見ると、自然の完全性を暗示するような力の導線が極度の集中力によって辿られているが、そこにまで至るペン画の中には、細密画が孕む矛盾が露呈していて興味深い。細密画は、対象の形態が持つ輪郭線の把握と、細部の質感にまで至る描写が同期している必要があるが、その二つが調和を持って同期せず、互いが持つ力が不均衡として現れるとき、矛盾が露呈する。このような、デッサンとしてのバランスを失った状態はしかし、描写のズレによって奇妙な強度を生み出している。まるで、トポロジカルに裏返ったかのように見える湾曲した木の葉、実際の凹凸とは逆に見える月のクレーターのような暗い影の部分。ゴッホの油絵が持っていた問題も、細かい筆触の論理とデッサンの整合性とが綺麗に同期せず、破局する地点にこそあった。同じ印象派でもピサロのような画家は、実践において矛盾が現れず、理論通り器用に纏まってしまう。

 内海聖史の絵画は、支持体となる分割されたパネルに円形の筆触によって構成されており、その明快な構造はいかに巨大なサイズの作品をも生成させることができる論理を持っている。映画のスクリーンのように、矩形の中の全ての部分が、筆触が置かれるにしろブランクとして放置されるにしろ、等しく場としての機能を担わされている。しかしそれは、確率的な複雑さを孕みながらも、順番に石が置かれてゆくことがあらかじめ決められている碁盤のように、余白さえもが予定調和の数合わせとして処理されてしまう危険性を持っている。そのとき、制作の論理がルーティンに堕し、スペクタクルな効果だけが現前することをいかに阻止することができるかが新たな課題として浮上してくるのではないか。

 須田悦弘の写実的な『ガーベラ』の木彫は、具象彫刻であるのと同時に、抽象的な造形性を獲得しており、以前批判したギャラリー小柳の展示*1よりも面白く感じられた。