作品について

 画家の永瀬恭一さんが、私の作品についてコメントを書いてくださっている。

http://d.hatena.ne.jp/eyck/20080423#p1

 確かに、形式的な反省を手掛かりのひとつとして絵画を実践的に思考しようとする場合、ブラッシュストロークをどう扱うのか(排除するのか)というのは大きな問題だと思う。実際私自身の作品も、具象的な作品を作っていた時期を除いて、ブラッシュストロークを取り入れる時期と、それを批判的に排除する時期とが交錯しており、例えブラッシュストロークを表面上用いていない時期においても、この問題が頭から離れることはなかった。現在は、再びブラッシュストロークを用いた作品を制作している。

 自身の問題により引き付けるなら、やはりセザンヌの存在は大きい。単純化が持つ批評的な効果を期待して、あえて暴力的な整理を恐れずに述べるが、印象派の中でも、モネのような人物が筆触の形式化を推し進めた結果、統制的理念なき、視覚の離散状態に陥ってしまったのに対して、セザンヌの独創は「デッサン」の原理*1による画面の再構築と、絵画史を理念として作品に導入することだった。マニエリスム的な水平性に対して、私がよりジャコメッティーを評価するのは、セザンヌからこのような部分を多分に引き継いでいるように思えるからである。

 現在の関心は、対象を前提としないで、いかに理念的な対象を形づくることが出来るかという点に集中している。自身の制作に関して、理論的なことはあまり言葉にしたくないのだが(言葉は筆の動きに対して常に遅れるから)、コメントを頂いたことを有難く思ったので、それに反応する形で少し書いてみた。

*1:ここで言うデッサンとは、単に素描術のみをあらわすのではなく、イタリア語のdisegno(ディセーニョ)という語が意味として持っている「構想力」を含む。広義には、セザンヌの発明した、細かく分割された筆触の組織法や、色彩と一体化されたデッサン概念をも包摂することができると思われる。