清宮質文展・プライマリーフィールド展

 JR横須賀駅で電車を降りると、港には幾隻もの灰色の軍艦が聳えていた。その灰色をバックにして、遠くを白いカモメが一羽二羽と飛んでいる。鳥の餌となる菓子を海に向かって投げ込んでいると、遠心力が強まるようにしてカモメが次々に集まってくる。カモメは高い声で鳴きながら、投げた菓子が逆風に浮かぶのを嘴で器用に捕まえる。大量のカモメが互いにぶつかり合わずに小さな軌道を描いて旋回し、密度が極限にまで高まった時、カモメが少しづつ四方へ散り始めた。上を見上げると、数羽の鷲がすぐそこまで近づいていた。カモメは、餌を獲りたい気持ちと、危機回避の衝動との間で逡巡しているようだ。

 横須賀美術館は、海岸線をバスで十数分行ったところにあった。色を分析的に見たわけではない。しかし、海を見て青いと強く感じたのは昔、南紀の海岸線を歩いた時以来のことで、両方とも同じ太平洋であることに思い至った。海が海であることを、剥き出しで我々に伝えてくるための条件とは何だろうか。

 美術館の建築は、天井の高い常設展示室を眼下に、狭い橋を通って入る特異な造りとなっており、白い壁に自然光がよく反射している。天井と壁との境目は、なだらかな曲線状に処理されており、天井までの距離感が目測できない。

 企画展の清宮質文展は、質・量共に充実していた。薄い色彩の中に浮かぶモチーフは、水中に沈んでゆくガラス片のようにさりげなく画面に置かれているが、同時に堅固な構成に支えられ、動かしがたい状態で目前にあった。画家は、巧みに木版画の特性を引き出している。複数の版木が、精妙なズレを作り出しつつ、それぞれが独立して自己を主張すると同時に、互いの調和をも目指す方法が、対位法的な効果を版画に与えている。絵画がもつ通常の工程とは逆に制作が進行するガラス絵も面白い。この画家は、版から絵具が紙へと乗る瞬間や、ガラスに絵具が張り付いてゆく順序が絵画を作るといった、絵画が持つ唯物的な側面に極めて意識的であったのだ。幻想的な画風を統御する、唯物的な職人芸という伝統。

 横須賀美術館は、日本近代絵画のコレクションが充実していた。長谷川利行があるのは当然として、朝井閑衛門の膨大なコレクションが残されているのには驚かされた。多くの人が面食らうような画風だと思うが、朝井閑衛門の絵が持つ破格の自由さは侮れない。

 海へ面した谷内六郎の展示室を観た後、横須賀まで引き返し、葉山へ向かう。神奈川県立近代美術館葉山館で開催されている、プライマリーフィールド展を観るためだ。再びバスに乗って美術館に到着すると、閉館時刻が迫っており心配したが、何のことは無い、30分ほどで全て見終わってしまった。一昨年に同館で、聞くはずだったシンポジウムも無視して、何時間も観続けたジャコメッティー展と好対照である。これらの作品をジャコメッティーの彫刻に比べると、情報量が圧倒的に欠けている。視線を拘束するためのシステムが欠けている。そして、支持体へと向き合う誠実さが欠けている。

 展示を見終わって海岸に出ると、丁度太陽が沈んで、光が暗い蒼の中に引き込まれる場面だった。遅い時間ということもあるのだろうが、沢山の船が行き交う横須賀に比べて、葉山の海には船がひとつも浮かんでいなかった。波打ち際に近づいて、深呼吸をして、波の音を頭に焼きつけた。