ドガ展(横浜美術館

 描く機械というものが存在するとすれば、それはドガのことだろう。ドガの制作は、絵画における審美的な批評基準を超えている。それゆえ、批評的観点から見れば、作品の出来、不出来にバラつきがある。しかし、ドガにとってそのようなことは、どうでも良い些事に過ぎなかった。もしキャプションが無ければ、傑作「エトワール」と、くつろいだ時に描かれたクロッキーとが同じ作者であることを、多くは疑うだろう。だが、それが絵画の現実であり、重要な点なのだ。


没後120年 ゴッホ展(国立新美術館

 ゴッホを過剰に神話化せず、関係する作家の作品と共に、冷静に制作の進展過程を辿る、非常に目配りの効いた展覧会である。そのことは、「ひまわり」が一点も出品されていないことに象徴されている。この展示を見れば、オランダ時代の作品が、決して暗いだけの若描きではなく、スルバランにも似た、独特の光の秩序を持っていることがわかるし、デッサンを見れば、この画家が、強迫的なまでに、「正しい形」を捉えることに執心したことも理解することができる。少し前に、同じく夭逝した画家である、村山槐多の展覧会を松涛美術館で観たが、死の前数年の間に、表現の(技法的)ピークが訪れて、死の直前である一年程前から、作品が豊かさを抱腹しつつも静寂とした領域に入るのを確認したのだが、今回のゴッホ展においてもその特徴を看取することができた。(決して過剰にならず)色彩を注意深くコントロールしながらウェット・オン・ウェットで木々を描いてゆく晩年の筆致は素晴らしい。ゴッホが強い影響を受け、兄弟で作品を収集していたというモンティセリの作品が二点出品されていたが、モンティセリが非常に重要な画家であることが分かったのは収穫だった。気質的には、影響を受けたというゴッホよりも、ヴュイヤールの悪魔的作品、具体的には「ザ・コレクション・ヴィンタートゥール」に出品されていた「室内、夜の効果」及び、「アネット・ナタンソンと道化人形」などに近いものを感じた。


井上まさじ展(土日画廊)