デッサン

uedakazuhiko2007-05-12


デッサンをすると、視覚が能動的になり、色々なものが眼に飛び込んで来る。写真を撮る時にも、異様に物が見えるようになることがあるが、それは、ともすると「無限のくりかえし」*1に陥ってしまう可能性のある明晰さであり、デッサンによる手の動きを伴った視覚とは異質なものである。「風景」を見ながら、同時に木の葉の細部のようなものが克明に意識されたり、対象のうちのある部分だけが飛び出して見えたりということは頻繁に起こりうることなのだ。だから、デッサンをする者から見れば、セザンヌジャコメッティーの作品のような、時に「異様」*2とさえ言われるモチーフの持つ複雑な形態は、自然であるように見える。制作において、描写の直接性を排する観念的な行為に終始しながら、同時に両者の作品のあり方を理解するには困難が伴うだろう。美術館でセザンヌの絵を見てから外に出ると、眼に見える木々がセザンヌの絵のように見えてしまうことは、故無しとしない。そこで視覚は、一時的にセザンヌの「物の見方」*3に慣らされたが故に、絵と「現実」*4の交叉に立ち会うことが出来たのである。

*1:福田恆存

*2:『絵画の準備を!』のなかで、岡崎乾二郎氏はセザンヌの絵画に見られる形態のあり方を、繰り返し「異様」・「ビョーキ」と指摘し、セザンヌの絵を「病理的な概念でいう徴候=シンプトゥム」と仮定して論ずる必要性を主張している。

*3:ドガ

*4:現在みずず書房から『エクリ』という題名で出版されている文集は、当初『ジャコメッティ 私の現実』というタイトルであった。