古谷利裕展 吉祥寺 A-things

スクエアなロウ・キャンバスに、絵具が混入されたジェッソによって、独特の乾いた質感を持った斑点に近い色彩群が鏤められている。多くの作品で、色彩の斑点はキャンバスの中央付近を基点に配されており、これらの作品群が、はじめ、木枠に張られる前のキャンバスに描かれ、後から改めて木枠に張り直されたことを示唆しているようだ*1。また、色彩は筆ではなく、木の枝によって描かれており、そのことが色彩の配置と塗る動作に良い意味で不器用な外観*2を与えている。上記の2点は、作家が絵画面を構成する上で「メチエ」を故意に抑制していることを示しており、古谷氏の作品を理解する上で非常に重要な部分であると思われる。

構成やメチエが抑制されることによって、作品は境界を確定するという意味での古典的なタブローの概念を破壊している。恐らく、キャンバスにスクエアな矩形を選択していることも、このことに関わりがある。まるで、キャンバスの中心を基点に落ち葉がランダムに重なりあっているような外観は、視点に中心を与えることを拒否しているようであり、作品を長く眺めていると、次第に支持体が存在していることが忘れられ、透明性の相の元に色彩の明滅だけが知覚され、その斑点が純粋で自律的な運動を始めるかのようだ。

絵画の約束事を巧妙に回避しながら、それでも存在様態として不可避的に絵画を選択してしまうという作品のあり方は、古谷氏がホームページ上で述べている、保坂和志の危険な非-社会性*3にも通じているような気がして非常に面白いと思った。

A-things

*1:ボナールも張られる前のキャンバスに絵を描いた後に、画面の境界を定め、木枠に張り直している。このような制作のあり方は、理論的には絵画面が無限に進展してゆくような潜在力を保持している。

*2:画家のフランシス・ベーコンの言う、「コントロールされた偶然性」を想起させるが、古谷氏の場合はベーコンに比べてより「直接的」な印象がある。

*3:06/04/23(日)の日記に以下の記述あり。「この本のもととなった、Web草思での連載をその都度読みながら、やっぱ保坂和志って危険な人なんだよなあ、と思っていた。保坂氏の脱-社会性というか、非-社会性みたいなものがモロに出ている、という感じがしていたのだった」